ぷかぷか日記

「ともに生きるってなんだろう」セミナー

  • 彼らと出会ったおかげで、人生の幅も面白さも100倍くらい広がった。
     2月11日の「ともに生きるってなんだろう」セミナーの事前質問第五弾です。 www.pukapuka.or.jp ●養護教員をされていたと伺っていますが、「養護」に就いた理由があったらお教えください  養護学校に行ったのは別に希望したからではありません。私は小学校の教員になるつもりで採用試験を受けました。当時養護学校を希望する教員がいなかったのか面接の時に、希望すれば養護学校も行けます、みたいな話が出て三つの選択肢が示されました。 ①養護学校に行きたい ②養護学校は行きたくない ③積極的ではないが、行ってもいい。  私はそれまで障がいのある子どもとおつきあいの経験もなく、障害児教育を勉強したわけでもなかったので、養護学校がどういうところなのか、ほとんど知りませんでした。障がいのある子どものいる学校という漠然としたイメージしかありませんでした。なので、養護学校に行きたい、なんて思いはさらさらなく、かといって養護学校はいや、というのでもなく、ま、頼まれれば行ってもいいか、くらいの気持ちでした。で、③を選択しました。  ところが面接が終わってすぐに、養護学校の校長から電話 「養護学校に来てみませんか?」 やさしいお誘いの電話です。断るわけにも行かず、しゃあない、行くか、みたいな全く後ろ向きの気持ちで養護学校で仕事をすることになったのです。  養護学校に行ったものの、障害児教育も勉強してないし、おつきあいもしたことないし、どうつきあったものか全くわからず、悪戦苦闘の日々が始まります。  おしゃべりできないし、字も書けないし、着替えもできないし、うんこの後始末もできないし、できないことだらけの子どもたち相手の日々が怒濤のように始まりました。日々想定外のことが起こり、 「ヒャ〜、どうしよう、どうしよう」 とオロオロするするばかり。でも、このオロオロする、という弱い人間丸出しで彼らと向き合ったが故に、人として彼らと出会えたと思っています。こんなにおもしろい人たちがいたんだ、という発見です。  障害児教育をしっかり勉強して、その知識で彼らと向き合っていたら、人として彼らと出会うことはなかったと思います。人として出会えたからこそ、その後の人生の幅も面白さももう100倍くらい広がったと思っています。  彼らと出会う前は、やっぱりいろんなことができない人、というイメージしかありませんでした。でもよ〜くおつきあいしてみたら、そういったマイナスイメージを遙かに超える人間の面白さ、魅力を彼らは持っていました。重度障がいと言われている子どもたちです。こんなおもしろい人たちがいたんだ!という発見は、私の中にあった人間のイメージを大きく広げてくれました。  ケンタローという子がいました。ケンタローは犬が大好きでした。いっしょに散歩に出かけた時、犬がいて、ケンタロウーは駆け寄っていきました。で、何したかというと、犬を思いっきり抱きしめ、犬の顔をペロペロなめ始めたのです。犬の方がびっくりしていました。  「犬が好き」というのはこういうことなんだと教えられた気がしました。ふつうは手でなでたり、抱きしめたり、です。それを一気に超えてしまったのです。  彼らとおつきあいしていると、こういった私たちの常識では考えられないことがたくさん起こります。だから障害児なんだ、と否定的に見てしまうと、そこからは何も出てきません。そうじゃなくて「犬が好き」というのはこういうことなんだって、新しい気づきとして受け止めていけば、自分の人生の幅がぐんと広がります。私は彼らとのおつきあいで人生が豊かになったと受け止めています。  彼らといっしょに生きると、社会が豊かになる、といつも言っていますが、彼らとの出会いが教えてくれたものです。彼らといっしょにやっている演劇ワークショップは、その豊かさを目に見える形で舞台で表現します。  彼らを前に、どうしていいかわからずオロオロしたこと。その弱い人間丸出しの中で、彼らと出会えたこと。そういった経験が、30年後、「ぷかぷか」を作るいちばんの動機になっています。  彼らと出会って、ほんとに人生が変わりました。100倍くらい楽しくなったと思っています。彼らに感謝!です。
  • 彼らのこと「素敵な人たちだなぁ」って思えるような出会いをするだけです。
     2月11日の「ともに生きるってなんだろう」セミナーの事前質問第四弾です。 www.pukapuka.or.jp ●タイトルになっている『ともに生きること』が、なかなか難しいのは、何に起因しているのか、お聞きしたい。  いちばんの原因は学校教育の中で、障がいのある子どもたちとそうでない子どもたちがわけられていることだと思います。柔らかい感性を持っている子どもの時に障がいのある子どもたちとおつきあいする機会があれば、「あっ、楽しい!」って、みんな思うし、それがきっかけでおつきあいの幅がどんどん増えていきます。  大人がお膳立てした「交流」の時間では、「あっ、楽しい!」って思えるような出会いは生まれません。そういった関係の薄さが大人になってもずっと尾を引いていて、「ともに生きる」ことがむつかしくなっているのだと思います。どうつきあっていいのかわからない、ということです。  「ともに生きる」とか「共生社会」といった言葉がやたら飛び交っていますが、言葉だけで実態がなかなか見えません。実態を作り切れていない、作れない。本気で作ろうとしていないんじゃないか。だから「ともに生きる社会」とか「共生社会」が何を生み出すのか、といった肝心な部分が語れないし、表現もできない。  そういう言葉を口にする人が、障がいのある人たちと実際に何をやってきたのか、何を作り出してきたのか、が問われているのだと思います。  福祉事業所では障がいのある人たちが働いています。でも、そこにあるのは「ともに生きる」関係ではありません。障がいのある人たちはいろいろできないことが多いので、自分たちがいろいろやってあげないと何もできない、と考えているようです。「支援」という上から目線の関係です。これは「ともに生きる」関係ではありません。  上から目線の関係からは何も新しいもの、おもしろいものは生まれません。目の前に素敵な人たちがいるのに、もったいない話だと思います。「支援」という上から目線の関係にいると、相手を「素敵は人たち」とは思いません。そう思っていないから、そこからは素敵なものなんか生まれません。もったいないです。  ぷかぷかはタカサキが養護学校の教員をやっている時、彼らに惚れ込み、彼らといっしょに生きていきたいと思って始めました。なので、彼らのこと、いつも「素敵な人たちだなぁ」と思っています。   そう思っていると、こんな楽しい絵をササッと描いてくれたり、楽しい、魅力あるお店を作ってくれたりします。  素敵な人たちといっしょに芝居を作ると、こんなに素晴らしい舞台ができます。  「ともに生きる社会」が何を生み出すのか、写真を見るとよくわかります。いつも言っていることですが、いっしょに生きると、社会が豊かになるのです。だから「いっしょに生きなきゃソン!」と私は思っています。  「ともに生きる社会」は誰かが作ってくれるものではありません。私たちが作るのです。彼らを理解するために小難しい勉強したり、誰かのむつかしい話を聞いたりではなく、「素敵な人たちだなぁ」って思えるような出会いをするだけです。そしてそんな出会いのできる場を街の中に作るのです。  「ともに生きる社会」だの「共生社会」だのの言葉がまだなかった30年前、こんな楽しい場ができちゃいました。「彼らと一緒にやるとすっごく楽しいよ」っていろんなことやっただけです。そうするとこんなにたくさんの人が集まりました。むつかしいことでも何でもありません。  写真は『街角のパフォーマンス』。こういう場がどうやってできたのかを書いています。 shop.pukapuka.or.jp
  • 今、自分の人生、楽しんでる?
    2月11日の「ともに生きるってなんだろう」セミナーの事前質問第三弾です。 www.pukapuka.or.jp ●障害を持ち2年後に学校卒業を控えている娘を持つ母親です。進路を決める上で重要な事、身につけておく事をお教えいただきたいと思っています。 ●障がいのある子どもを育てる時に、将来に役立つ力をどのように身に着けられるよう助けていったらいいか、アドバイスをください。  よくある質問ですね。養護学校の教員をやっている頃は、そういったことも考えていましたが、「ぷかぷか」という働く現場を作ってからは、かなり考え方が変わりました。  ぷかぷかを10年やってきて思うのは、 「漠然と何かを身につける」 とかではなく、 「今、自分の人生を楽しむ」 ことこそ大事じゃないか、ということです。   ぷかぷかは 「いい一日をみんなで作る」 ことを大事にしています。いい一日はいい人生の始まり。みんなでいい人生、楽しい人生を作っていこうよ、というわけです。  なんのために仕事をするのか。それはいい人生を送るためです。人生を楽しむためです。  ぷかぷかではみんな仕事を楽しんでやっています。       仕事は一日のいちばんいい時間を使います。人生のいちばんいい時間を使うわけですから、仕事は楽しくないと時間がもったいないです。  仕事は人生そのもの。だから楽しくないと、人生がつまらなくなります。  もう一つ。自分のやりたいことをしっかり見つけることです。自分は何をしたいのか。そこがはっきりしているかどうかがすごく大事です。  以前、「しんごっち」という青年がいました。しんごっちは電車が大好きで、給料が出ると、横浜川崎間のひと駅だけのグリーン車の切符を買い、8分間のわくわくするような旅をやっていました。  ひと駅だけ乗るのにわざわざ高いグリーン車に乗る人はまずいません。わずか8分の乗車時間ですから、立ったままでも十分行ける距離です。座ったとしても、ゆったりくつろぐような時間はありません。それでも、そこに750円のグリーン車の代金を払って乗るところに、しんごっちの「人生観」があるように思うのです。  横浜から博多までのグリーン車の旅よりも、短い分、もっと濃縮された、わくわくするような贅沢な時間がそこにはあるような気がします。8分間の胸のときめきこそ大事にしたい、というしんごっちの素敵な人生がそこにはあります。 グリーン車で自撮りしたしんごっち。人生を思いっきり楽しんでいます。 テーブルの上には慎ましくお茶とおにぎり  自分は何をしたいのか。それをしっかり見つけて生きていって欲しいと思うので
  • 彼らといっしょに生きることが生み出す「希望」
    2月11日(金)に「ともに生きる」ってなんだろう、というテーマでセミナーをするのですが、参加予定の方から事前に質問がいくつか上がってきました。 その中の一つにこんな質問がありました。 《相模原事件後、障がいのある方、職員や関わる方々、社会はどのような変化がありましたか?これからどのような希望をお持ちですか。》    事件後、私自身は何かにつけ事件のことを話題にしますが、社会全体を見渡せば、事件直後はともかく、5年たった今、それほど変化があったとは思えません。結局はどんなに大事件であっても、やっぱりみんな忘れてしまうのだと思います。それが日々を生きる、ということだと思います。ですから社会に変化がないことを色々言っても、そこからは何も生まれない気がします。  事件の犠牲者は全員名前が伏せられていました。このことが余計に事件を忘れさせる原因でもあったように思います。でも、事件の裁判が始まり、犠牲になった美帆ちゃんの名前が明らかになりました。美帆ちゃんという名前の一人の女性の人生がそこにはあったということです。そのかけがえのない人生がそこで断たれたということです。そのことを忘れないようにしたいと思うのです。  名前は、その人の人生を語るいちばんの手がかりです。名前があることで、私たちは「ああ、あの人ね」と思い出すことができます。その名前がわからなければ、その人の人生を思い浮かべることはできません。その人の人生がなかったと同じになります。重い障がいのある人たちが、そのように扱われたこと、そのことを忘れないようにしたいと思うのです。  殺された19人にはそれぞれの名前から思い起こす人生があったはずです。そのことを美帆ちゃんの名前の公表は教えてくれました。 「美帆ちゃんのこと、忘れないよ」それは、事件を抽象的に語るのではなく、美帆ちゃんという一人の大切な命が奪われた事件として記憶し、語っていくということです。そこから何をすればいいのかを考えていく、ということです。www.nhk.or.jp  質問に「これからどのような希望をお持ちですか」という言葉があります。事件の犯人は「障害者はいない方がいい」といい、「よくやった」などと共感する人がたくさんいました。ぷかぷかは「それはまちがっている」と言葉で批判するするだけでなく、障がいのある人たちと「いい一日だったね」ってお互い言える日々を黙々と作り続けてきました。ぷかぷかの日々の活動そのものです。日々の活動そのものが事件への批判であり、異議申し立てでした。たくさんの人が共感してくれました。そのことが大きな希望だと思っています。  彼らといっしょに生きる日々は、ほんとうに楽しいです。楽しさは未来への希望を生み出します。  どんなに悲惨な事件であっても、彼らといっしょなら、それを乗り越えていけます。それが彼らといっしょに生きることが生み出す「希望」です。
  • 最近の日記
    カテゴリ
    タグ
    月別アーカイブ