ぷかぷか日記

第5期演劇ワークショップ

  • 「あの広場のうた」を一緒に歌いながら目頭が熱くなりました
     「表現の市場」について少し長い感想書いてくれた方を紹介します。 ●映像クリエイターの仲間の方です。  表現の市場、最高でした! 和太鼓は間に合わなかったのですが、かっこいい車いすのショーから拝見。 江原さんとだいちゃんの演奏にしびれ(あのかっこよさをどう表現したらよいのでしょう)、 はっぱオールスターズのパフォーマンスに笑い転げ(相鉄線のうた、涙を流して笑いました)、 楽しみにしていた洞熊学校ののびやかさ、クリエイティビティにのめりこみました。  私は小学校の4年生から3年間、養護学級の人たちと給食を食べ、放課後の掃除をいっしょにしていたので(そのうち登下校も一緒に)、彼らのやさしさ、人懐こさはよく知っているつもりでいましたが、自分が表現することを仕事にしてきてからは、クリエイターとしての彼らの感受性や表現力に「かなわないなあ」と心底リスペクトするようになりました。  洞熊学校のタペストリーの迫力、おもしろさ、美しさ。 ワークショップを通して、みんなで創り上げたと伺った、ひとりひとりが個性的であると同時に全体でうねるように展開していくストーリーのおもしろさ。 本当に本当に、最高でした。   休憩時間にロビーで買ったパンの香りにがまんできなくなった次女が、なにもつけずに食パンをぱくぱく食べて、おいしーーーい!あまい!と叫んでいました。私はとってもかわいいブローチをゲットして大満足です。 ●同じく映像クリエイターの方で、昨年の表現の市場の記録映画を作ってくれた方です。ぷかぷかのプロモーションビデオ第2弾、カナダで上映した『Secret of Pukapuka』、ぷかぷかさんのカナダ珍道中『ぷかぷかさんカナダをゆく』を作った方です。  今回は体調が悪そうで大変でしたね。でもセツさんが機転を効かせて副校長を演じられたのにはとても感激しました。どんなことが起きても失敗ではない、というのがぷかぷかの舞台のメッセージの1つだと思いますが、図らずもそれを表すシーンになりましたね。前回、前々回は撮影しながら舞台を拝見していたので、カメラのアングルや録音などを気にしながら客観的にしか観ることが出来ませんでいたが、今回は集中して観ることが出来てとても感慨深かったです。予想通り(?)ぐずぐずになるシーンもありましたが、込められたメッセージや舞台の制作の苦労が伝わってきて「あの広場のうた」を一緒に歌いながら目頭が熱くなりました。 ●金沢からワークショップに参加した方です。「第一期の演劇ワークショップの記録映画」を見て、参加しました。ダンスをやっています。  今回「表現の市場」に参加することで “演じる”と“表現する”のちがいというか… 何かを演じてるようだけど、その人らしい、その人だけの表現があることの面白さを発見させてもらいました。 たとえば… ミツバチの動きに、好きな戦隊モノの決めポーズを入れたり 「うさぎとカメのかけっこ」に何故かダンサーが混ざって、ずっと踊ってたり(笑) それは、一人ひとりにとって今の自分を表現する大切な力。 でも、その力が生まれるのは、否定されたり無理やり変えられたりされることの無い場をつくっている皆んながいるからなのかもしれない。 だから 「表現の市場」というテーマの発表を「みんなでワークショップ」という練習を通してつくっていけたのだと思います。 共演した、デフパペットシアター ひとみの方たちやダンス講師の伊藤多恵さんにはカラダを使った表現の可能性や力強さを感じることができました。 ピアノ、チェロ、舞台のシーンそれぞれに奏でられた音、うんこの歌、ミツバチの歌…笑 体調不良で声のかすれた高崎さん、台本にはないセリフや動きが生まれる舞台は何とも “そのままのわたし達”が凝縮された空間だったように思います。 今回の「表現の市場」で何を得たのかはうまく言えませんが、これから自分がどんなふうに生きていくかの大切なスパイスになったことだけは確かだと思います。 ●地元の方でぷかぷかの大ファン。ワークショップには3回参加。今回は内容がグロテスクなのでパスしました。  今回の演劇ワークショップには不参加でしたが、食うや食われる、と言う部分、ナメクジや蜘蛛の連想は(あくまでフィクションと分かっていても)原作を読んで何とも言えない気持ちになってしまったので、参加していたら正直、まずワークショップ中メンタルがきつかっただろうなと思いました。私が気にし過ぎなんですけどね(笑)  なので、この舞台は少々頑張って覚悟して見ました。私の、この話に対する怖い感はともかく。ぷかぷか版だけに話も オドロオドロし過ぎず 、ぷかぷか風に進んで行きます。他を出し抜いても一番になろう、一番になれ!との学校の教え、生徒の蜘蛛やタヌキやナメクジのそれぞれの、やった事、ナレノハテ。そして自由なハチ、、、。  セット、、凄味があってすごく良かったです。回を重ねる毎にますます凄く鋭くなって行く!!次に描写。蜘蛛の影絵での表現、ナメクジがトカゲを舐め溶かしながら食らう場面、狸が死に草に埋もれてゆく描写など、成る程すごいなぁ、、、そう来たか!場面場面の表現がリアルですばらしかったです。ぷかぷかメンバーさんの所々のセリフや動き、表情、一人一人、〇〇さんの動き楽しい!▽さんの(間)あれは偶然? ○○さんのセリフ面白い!などなど、メンバーさんを知っているからこその見方も出来て楽しかったですね。  舞台を見た方が(障碍者イベントと言うと、支援者にしっかり支援された障碍者が決まった事をおとなしくやっているイメージがあるがここでは全く違う)と話しておられましたが、その通り。ですよね。ですです。一括りで障がい者ではなく、あくまで個々の人が立っている感じ。それぞれの人柄がでています。  私は今回出なかったからメンバーさんと過ごす時間が無くて、、やっぱりそれは寂しかったな、、と、しみじみしましたやっぱり、もっと一緒に過ごしたいな。 ●長野から来られた方 この世界に一緒にいられて           シアワセでした  🌀ぷかぶかさんの 表現の市場     自分もわりと長年表現活動やパフオーマンス をやってきているのですが、今日のどの場面 でも「これはなんだ?」「この愉しさはなん だ?」「時間を忘れた!」「この観客の空気 はなんだ?」とおどろくばかりでした。  🌀彼らはとても自然体で今、瞬間をステージの上で生きてそして在ました。  🌀自分がやってきたどの太鼓とも違う。そして二番目の「いろいろな電動車いす と いろいろな私たち」こんなステージがあるのか、そして観客の自然なやさしい拍手  🌀はっぱおーるすたーずの「ラップ相鉄線」がずっと残ります  🌀そしてラストのミュージカル「洞熊学校を卒業した三人 ぷかぷか版」不思議なずっと気になる、豊かな時間が流れていたというか、時間という概念がなかったというか、とにかくぷかぷかさんたちがいたのでした。 
  • 花岡さん自身が舞台を楽しんでいる
     花岡さんが「表現の市場」の舞台にhanaちゃんといっしょに立った話を書いています。  ameblo.jp 《 大きな覚悟を持って社会に出て行くことと同じなんだ。  hanaの重みは、もうhanaだけではなく、色んなものを背負っている重みなのだと。》    確かにそうだと思いますが、そういったものを超えて、花岡さん自身が舞台を楽しんでいる、というところが大事だと思います。だから舞台があんなに楽しい。大きな覚悟だけでnahaちゃんを背負っていては、見る方もしんどくなります。  昔教員をやっていた頃、子どもたちとやる芝居にお母さんたちを巻き込んだことがあります。そのときお母さんたちにいったのは、 「お母さんとしてここに立つのではなく、お母さんを取っ払った一人の人間としてここに立ってほしい。そうしたとき、初めて舞台の上で子どもたちと出会えます」  いつもいつもずっとお母さんでいて、自分を忘れている気がしたからです。それを舞台に立つことで思い出してほしかったのです。  ちょうどその頃体育館の舞台ではなくプレイルームを占拠して「芝居小屋」という自由な空間で子どもたちと芝居をやっていました。お母さんたちもいっしょに立つ機会を作りました。 pukapuka-pan.hatenablog.com  
  • 子供達を連れて行っても気遣わないでいられるから
     演劇ワークショップに親子4人で参加している方の感想です。お母さんとお子さん二人はミツバチのダンスをやりました。 ●●  はじめは、このお話の意味するミツバチらしさを、どう表現するのか全く想像がつきませんでした。  あの短時間で、先生のお話に引き込まれているうちに次々とダンスが出来上がっていき、出演者それぞれがそのままミツバチになっただけというか、大人だったり、子供だったり、ダンスが得意だったり、表現力豊かだったり、子連れだったり、全部を通してそのままの個が尊重されてる気がしました。  個々の表現がそのままどんどん場面に組み込まれていって、左右のグループに分かれて踊る所は、誰の踊りが一番と主張し合うのではなく、お互いの考えた踊りをマネし合っている所が、お互いを認め合っている様にも感じました。  先生が、ダンスを作る段階でそれを自然と盛り込んでしまっているところがすごいと思いました。  このお話の設定のミツバチの様に、型にはまらない、自由なダンスが出来上がって楽しかったです。  ななは自分の自由な表現が出来た事も嬉しかった様でした。りょうやも珍しく脱走する事も少なく(笑)楽しそうに参加していました。 www.youtube.com  私が真ん中でやる役になり、りょうやが本番でどういう動きをするか分からないので、それが心配だと、先生にお伝えしたら、先生が(はっきり覚えていないのですが)「みんなで見るから大丈夫」という様な事を仰って下さった時、同時にその場にいた他の方達も自然に同じ事を仰って下さったのが嬉しくてありがたかったです。  以前、主人に、私がぷかぷかが好きなのは「子供達を連れて行っても気遣わないでいられるからなんだろうね。」と言われた事があります。  うちの子供達は人一倍、好奇心旺盛なので、外に行くと私はヒヤヒヤして目が離せないのですが、ぷかぷかでは、自由にさせていてもいつも皆さん温かく見守って下さるので、元々自分自身にとって居心地のいい場所ですが、子供達にとっても、親の立場としても、優しい場所なのだと思います。  それを、お芝居を作る過程で自然と作り出したのでしたらすごい事ですね。   1月27日(日)親子で舞台に立ちます。
  • 新しい文化が生まれます。
      今度の日曜日1月27日(日)は午後2時から第5回表現の市場です。障がいのある人といっしょに作り出す「表現」の「市場」です。彼らのパワーあふれる表現には、いつも圧倒されます。彼らのチカラは、「あれができない、これができない」「社会のお荷物」「生産性が落ちる」といった障がいのある人へのマイナス評価を一発でひっくり返します。  そしてここから新しい文化が生まれます。彼らは社会にいた方がいい、彼らが社会にいることで、社会は豊かになる、という文化、圧倒的に多い彼らに対するマイナスの評価に対して、彼らは「プラスの価値」を持っているという文化。そういったものを舞台で表現します。  相模原障がい者殺傷事件の犯人は「障害者はいない方がいい」「障害者は不幸しか生まない」といい、それを支える社会の空気があります。障がいのある人たちを社会から排除する文化です。彼らを排除することで、社会を息苦しくしている文化です。  それに対し、私たちは「障がいのある人たちはいた方がいい」「彼らがいることで社会は豊かになる」「障がいのある人たちは、周りの人たちを幸せな気持ちにさせる」といった思いを舞台で表現します。障がいのある人たちを社会から排除しない文化です。社会をほっこりあたたかなものにする文化です。  そういったものを目に見える形で舞台で表現します。  相模原障がい者殺傷事件の犯人の言葉を批判することは簡単です。でも、いくら批判しても、事件を生み出した社会は変わりません。大事なことは、犯人の言葉を超えるものを、実際に障がいのある人たちといっしょに創り出すことです。障がいのある人たちとクリエイティブな、新しい関係を創り出すことです。表現の市場の舞台は、まさにそのための舞台です。 鮮明なチラシはこちら pukapuka-pan.xsrv.jp  表現の市場および6ヶ月にわたる演劇ワークショップをやるために、200万円を超える経費がかかります。助成金、参加費などで約180万円のお金が集まる予定ですが、まだ30万円ほど足りません。ぜひみなさまのお力を貸してください。当日はカンパ箱なども用意しますが、当日来られない方、遠方の方は、下記口座をご利用ください。  ●郵便振替口座 口座記号 00260-4  口座番号 97844         加入者名 NPO法人ぷかぷか ●ゆうちょ銀行 NPO法人ぷかぷか 記号:10230  番号:19645501  ●横浜銀行 NPO法人ぷかぷか 理事長高崎明         支店名 中山   口座番号 1866298
  • ほんまにうまくできるんか、とはらはらしながら…
    第五期演劇ワークショップの6回目。 青い目のミツバチたちの踊りを作るためにプロのダンサー伊藤多恵さんに来てもらいました。 www.jafra.or.jp  ほらくま学校の「なんでもいいからいちばんになれ」の目標にみんな振り回されている社会にあって、青い目をしたミツバチたちは全くマイペースで日々を送っています。  赤い手の長い蜘蛛と、銀色のナメクジ、顔を洗ったことのない狸がそろってほらくま学校を卒業し、謝恩会などをやりながらも、腹の中ではお互い  「へん、あいつらに何ができるもんか、これから誰たれがいちばん大きくえらくなるか見てゐろ」 と思っていました。かたくりの花の咲く春です。  《ちゃうどそのときはかたくりの花の咲くころで、たくさんのたくさんの眼の碧あをい蜂はちの仲間が、日光のなかをぶんぶんぶんぶん飛び交ひながら、一つ一つの小さな桃いろの花に挨拶あいさつして蜜みつや香料を貰もらったり、そのお礼に黄金きんいろをした円い花粉をほかの花のところへ運んでやったり、あるいは新らしい木の芽からいらなくなった蝋らふを集めて六角形の巣を築いたりもういそがしくにぎやかな春の入口になってゐました。》  赤い手の長い蜘蛛が、なんとか一番になろうとがんばってがんばって巣をどんどん広げ、えさをとりまくり、ため込みすぎたえさがどろどろに腐って、蜘蛛もいっしょに腐って地面に落ちてしまいます。つめくさの花の咲く夏です。  《ちゃうどそのときはつめくさの花のさくころで、あの眼の碧あをい蜂はちの群は野原ぢゅうをもうあちこちにちらばって一つ一つの小さなぼんぼりのやうな花から火でももらふやうにして蜜みつを集めて居りました。》  銀色のナメクジは、やってきたかたつむりをとトカゲを相撲で投げ飛ばしたり、うまいこといって食べてしまいます。ぐんぐん大きくなって、カエルが来たときも相撲で投げ飛ばすのですが、塩をまかれ、溶けてしまいます。蕎麦の花が咲く秋でした。  《さうさうこのときは丁度秋に蒔まいた蕎麦そばの花がいちめん白く咲き出したときであの眼の碧あをいすがるの群はその四っ角な畑いっぱいうすあかい幹の間をくぐったり花のついたちひさな枝をぶらんこのやうにゆすぶったりしながら今年の終りの蜜みつをせっせと集めて居りました。》  顔を洗ったことのない狸は「山猫大明神様の思し召しじゃ」とか、うまいこといってウサギとオオカミを食べてしまいます。オオカミが持ってきたもみの袋も食べてしまい、そのもみがおなかの中でどんどん育ち、おなかが破裂します。冬の始まりの頃でした。  《このときはもう冬のはじまりであの眼の碧あをい蜂はちの群はもうみんなめいめいの蝋らふでこさへた六角形の巣にはひって次の春の夢を見ながらしづかに睡ねむって居りました。》  この、春、夏、秋、冬の場面のミツバチたちの踊りを考えました。  伊藤さんは季節ごとのちょっとしたエピソードを拾い上げ、一人一人から表現を引き出していきます。  たとえば春の場面で 《日光のなかをぶんぶんぶんぶん飛び交ひながら…》の「ぶんぶん」はどうする? 《一つ一つの小さな桃いろの花に挨拶あいさつして蜜みつや香料を貰もらったり》の「もらったり」波動する?  と、みんなに聞き、アクションで返してもらいます。そのアクションを今度はみんなでやります。そういったことを繰り返しながら、その場面での振り付けをどんどん作っていきます。わずか2時間足らずで春、夏、秋、冬の場面の振り付けを作ってしまいました。  この振り付けにチェロとピアノが入ります。チェロは日本フィルハーモニーの江原さん、ピアノはオペラシアターこんにゃく座の湯田さんです。春、夏、秋、冬を同じ楽譜でイメージを変えて即興で演奏してくれました。 www.youtube.com 花岡さんの感想です。 久々にダンスなるものをやりました。 講師の振り付けをひたすら覚えるダンスしか経験なかったので、   ブンブンはどうする? もらうはどうする? あげるはどうする?   とみんなで考えた振りをつなげてダンスにしてしまう流れがとっても楽しかったです。 面白い振りを考えるのには、結構自信がありましたが、 二見さんの振り付けが、もう天才的に面白く、どう頑張っても、逆立ちしてもマネできないレベルでとっても悔しかったです笑            ●● 金沢から参加した菊池さんは ダンスつくるプロセス。あんなに自由にそれぞれの内から出てくる動きをつなぎ合わせて。 個人から出た動きをみんなの動きに変化させるマジックみたいでした。 ●●  今回初参加のMiyanoさんは ダンス、とにかく楽しかったです。もともとダンスには苦手なのですが、ひたすら楽しくできました。うまくやらなきゃ、とかいいとこ見せなきゃ、という気持ちを持たずにできたからかと思います。それもやはり、ミツバチチームボルトさん、いくちゃん、さらにななちゃんのおかげです。全力で取り組んでいたので、私もただ全力で楽しむことができたんだと思います。朝、ゆみっちさんに会ったとき、ずっとやってたいくらい楽しいよと言われたのですが、本当にそうでした。 他のチームも、1人ひとりの存在がすごい・・。 改めて、表現するってどうゆうことか、考えてしまいました。 あまりに楽しかったので、来週のワークショップも参加できるように調整しております。  ●●  蜘蛛の場面はデフパペットシアターひとみの人たちとの影絵とのコラボになります。 子どもの蜘蛛たち 怪しい山猫大明神のお祓いの練習 ダンスの打ち合わせ ちょっと休憩 音楽ディレクター藤木さんと 金沢から参加した菊池さんの感想です。 ●● 今回で2回目の参加でしたが、 練習回数が残り少ないをわかっていたので、ちょっとした焦りも漂う雰囲気を感じていました。 自分らしさというか、お茶目さなのか。それぞれなぷかぷかさん達をみていて、本番を経験したことのない私は、正直 「このままでいいの?!」 というきもち… それでも、ワークショップが終わる頃には失敗とか成功ではなくて、今、この場に様々な人がいることが、まず素晴らしいことなんだ。 と思いました。 ずっと近くにいて、お昼ゴハンも一緒に食べようと誘ってくれたぷかぷかさんと関わる中で、ぷかぷかさん達だけじゃなく、参加しているみんなや観てくれる人でつくるのが 「表現の市場」なのかもしれない。 “私たちが共に在るという表現” それは、ぷかぷかさん達と一緒じゃないと完成しないよなぁ。 と思います。 …そうだとしても、何十人という多様な人を一緒にステージに立たせようとする高崎さんたちのパワーを感じずにはいられませんでした。  ●●   26日にもう一回ワークショップをやり、27日午前中舞台でリハーサル、午後本番です。ほんまにうまくできるんか、とはらはらしながら先へ進めるこの時期が一番楽しいです。  27日「表現の市場」で発表します。 n                              
  • ぷかぷかさんたちが社会に必要な理由が、また一つ加わった気がします。
     第5期5回目の演劇ワークショップがありました。   ほら熊学校の校歌を歌いましたが、 歌いながらあらためて   なんでもいいから いちばんになれ   なんでもいいから いちばんになれ   なんでもいいから いちばんになれ ということばが目指す世界のむなしさを思いました。はじめはこのことばを超えるものをぷかぷかさんと一緒に作りたいと思っていましたが、彼らといっしょにワークショップをやっていると、なんだかムキになって作るほどのものでもないように思えてきました。  一番のきっかけは3回目のワークショップでした。そのときのブログにはこんなふうに書いています。  歌詞に「なんでもいいからいちばんになれ」とあるので、「大金持ちになるには、どうしたらいいか」を提案しました。「大金持ちになる」というのは、すごくわかりやすいと思ったのです。  ところがその目標に興味を持った人はほぼゼロでした。もっとほかのことで一番になりたいというのです。お金こそ一番価値があり、みんな共感してくれると思っていた私の浅はかさに、初っぱなから気がついたというわけです。  生産性はお金をどれだけ生み出すか、で測られます。お金こそ一番の価値であると社会のみんなが思っているからです。でも、ぷかぷかさんはそうじゃありませんでした。世の中、もっと大事なもの、大事にすべきものがあるんじゃないか、って。「大金持ちになる」という提案を、全然興味ないよ、っていわれて、あらためてぷかぷかさん達が提案する「価値」にこそ耳を傾けようと思いました。  南青山で児童相談所の建設に反対する人たちは「土地の価値が下がる」などといってますが、なんだかなぁ、とむなしくなります。なんでもいいからいちばんになれ、と、がんばってきた人たちのことばです。彼らは何を守ろうとしているのでしょう。何を大事にしようとしているのでしょう。  そういう価値観とは全く関係ないところで生きているぷかぷかさんたち。だから彼らの周りには、ホッとするような空気感にあふれているのだと思います。  舞台では目の青いミツバチたちが、「なんでもいいからいちばんになれ」というほら熊学校の方針とは全く関係なく、ぶ〜んと飛び回っています。  この目の青いミツバチこそ、「なんでもいいから いちばんになれ」と追いまくられている社会にあって、マイペースで生きるぷかぷかさんたちではないかと思います。  「こんなに素直に生きてていいんだ、と気づくことができました。」 は、ぷかぷかさんといっしょに演劇ワークショップをやった学生さんの感想です。ほんの1時間程度のワークショップでしたが、学生さんはぷかぷかさんと出会い、自分の人生を振り返る機会になりました。  南青山の人たちも、ぷかぷかさんのような人たちと出会う機会があれば、もう少しちがうことばが出てきたのではないかと思います。  ぷかぷかさんたちが社会に必要な理由が、また一つ加わった気がします。  演劇ワークショップの発表会は来年1月27日(日)午後2時からみどりアートパークホールで開かれる「表現の市場」で行います。  
  • その惨めさをぷかぷかさん達は、彼らのセンスで救った気がした
     第5期演劇ワークショップ第4回目です。  「はやいはえらい 大きいはえらい、なんでもいいからいちばんにな〜れ」という、いわば「生産性の論理」を超えるものをぷかぷかさんたちと一緒に作り出したい、という思いで、今期、いろいろやってきました。でも、どうもうまくいきません。前回は「大金持ちになって一番になるにはどうしたらいいか」と、わかりやすいテーマを投げかけたつもりでしたが、大金持ちになることに興味を持つ人はほぼゼロでした。  発表会まであと3回。そろそろ台本を起こさないと間に合いません。先日開いた進行サイドの打ち合わせでも名案は出ず、やむなく宮澤賢治の原作をそのままぶつけてみることにしました。原作は結構グロテスクな場面があって、みんないやがってしまうのではないか、と心配していました。   ほらクマ学校の入学式の場面で、ウサギとカメのかけっこの話が出てきます。4チームに分かれて、どうしてカメはウサギに勝ったのかというお話を作りました。これが思いのほか楽しいお話がでてきました。  甲羅を脱いで、中身だけ走っていく、というコウキさんの案はすばらしいと思いました。ふだんの遅いカメは、みんなを欺く姿で、中身は実は早かった、というわけです。ウサギもまんまと騙された、と。  カメは泳いでいけばいい、というアズミさんの案は海の近くで干潮時をうまく使って勝つ、という案になりました。  スクーターに乗って勝つ、という案はショーへーさんの案ですが、カメがスクーターに乗る、という突拍子もない案がいいと思いました。  コンビニに寄らせて睡眠薬入りのコーヒーを飲ませる、というなんはきわめて人間くさくておもしろいと思いました。  そういう前置きのようなお話作りがまずあって、午後、原作の台本をやってみました。台本を読むのは,なかなかスムーズに読めず、結構厳しいものがありました。  でも実際に立って発表してみたら、思いのほか楽しい芝居になりました。  なめくじはヘビにかまれたといってやって来たトカゲを,私がなめれば直ります、とかうまいこといってトカゲを溶かして食べてしまいます。でも、次にやってきたカエルに塩をまかれ、溶けてしまいます。  カエルに塩をまかれ、ナメクジは溶けてしまいます。  ところがその溶けかかったナメクジが「助けて」というと、なんとナメクジにとかされたはずのトカゲの一部が駆け寄り、ナメクジを助けようとするのです。   こんなことは台本にはなく、優しいコンノさんが「助けて」の声を聞き、とっさに助け出そうとしたようでした。自滅するナメクジを助け出した、というか、なんと表現すればいいのか、一番になろうとして、結果的に自滅していくものに対して、こういう救いがあってもいいなと思いました。  彼らは「生産性の論理」に対して、アーダコーダの批判はしません。ただ困った人が目の前にいれば、全力で助ける。ただそれだけです。  タヌキは怪しい山猫大明神をまつり立て、「なまねこ、なまねこ、世の中のことはな、みんな山猫さまのおぼしめしのとほりぢゃ。おまへの耳があんまり大きいのでそれをわしに噛かじって直せといふのは何といふありがたいことぢゃ」と、うさぎの耳を食べ、足をかじります。ウサギは「あゝありがたや、山猫やまねこさま。おかげでわたくしは脚がなくなってもう歩かなくてもよくなりました。あゝありがたいなまねこなまねこ。」というのですが、これをななちゃんがやると、なんともおぞましい場面が、カラッと明るい感じで終わりました。  次にやって来たオオカミには「わしはお前のきばをぬくぢゃ。このきばでいかほどものの命をとったか。恐ろしいことぢゃ。な。お前の目をつぶすぢゃ。な。この目で何ほどのものをにらみ殺したか…お前のあたまをかじるぢゃ。むにゃ、むにゃ。なまねこ。お前のあしをたべるぢゃ。なかなかうまい。なまねこ。むにゃ。むにゃ。おまへのせなかを食ふぢゃ。」と恐ろしいセリフが続くのですが、ヨッシーがいうと、なんともおかしい雰囲気になりました。そうやって全部食べられてしまったオオカミがタヌキの腹の中で「こゝはまっくらだ。あゝ、こゝに兎うさぎの骨がある。誰たれが殺したらう。殺したやつはあとで狸に説教されながらかじられるだらうぜ」というのですが、これもツジさんが言うと、悲壮感が全くないものになりました。  これを見ながら昔教員をやっていた頃にやった芝居を思い出しました。沖縄をテーマにした芝居で、沖縄戦を語る場面。「明日の朝、あの村をこの大砲で攻撃する。あの村は全滅だぁ」と兵隊が言います。ところが兵隊をやった生徒の歩き方、いい方が、何度練習しても、なんともおかしくて、笑ってしまいました。台本では重苦しい場面が、生徒に救われたのです。  それと同じことが起こったと思いました。  ほらクマ学校を卒業した三人は、ほらクマ先生の言いつけを守って、それぞれ何が何でも一番になろうとがんばりました。その結果はいずれも自滅するという惨めな結果でした。生産性の論理に追われた人間が自分を見失い、自分をだめにしていくのと重なります。その惨めさをぷかぷかさん達は、彼らのセンスで救った気がしたのです。  ミツバチたちはほらクマ先生に「なんでもいいから一番になれ」といわれるのですが、ただぶ〜んと飛び回るばかりで、全く乗ってきません。そして三人が自滅したあとも、自分たちのペースで相変わらずぶ〜んと飛び回っています。 www.youtube.com  自滅した三人を見てほらクマ先生は 「あゝ三人とも賢いいゝこどもらだったのにじつに残念なことをした」 と言いながら大きなあくびをします。  そしてほらクマ学校の校歌をみんなで歌います。 ♪ カメはのろまに 歩いて見せた ウサギだまされ昼寝した   早いはえらい 大きいはえらい 勝てばそれまで だまされたが悪い  なんでもいいから 一番にな〜れ なんでもいいから 一番になれ   なんでもいいから 一番にな〜れ なんでもいいから 一番になれ  最初に歌ったときと、多分聞こえ方が違います。その違いが、この芝居をぷかぷかさん達がやることの意味ではないかと思っています。  来年1月27日(日)の午後にみどりアートパークホールで発表会です。ぜひ来て下さい。  金沢から参加した方の感想   今回のワークショップで感じたことは “誰の存在もないものにしない。されない。” というような感覚です。 そして、どこかに連れて行こうとするのではなく、ある一定の緩やかなフィールドを提示して、その中で “ なるほど。そいうのもありだね ” とか… “ いまのその感じいいね ” とか… 否定、不可、容認されないことがない…というか、 まず、そこにいる誰の存在も否定しない。というような安心感でした。 表出する言動をどうのこうのではなく、「みんなでワークショップ」名前の通りの場だった と思います。  印象に残った場面は二つ。  一つは、「うさぎとかめのお話」をみんなで作るワーク。 どんな方法で、かめがうさぎに勝ったのかを自分たちで考えたグループの発表は、 ・かめがスクーターに乗る ・かめは甲羅を脱いだら、実は速かった ・うさぎに睡眠薬をのませる ・ゴールの手前に波が来て、うさぎが渡れなくなる 自分の中には、いつの間にか、スクーターも睡眠薬も存在しない場面設定が出来上がってい たことに気づかされました。確かに、現代だったらスクーターもあるし、かめは本当は速いんだという可能性があったっていい。 そこに裏付けとか、根拠とか、いつの間にかできてしまっていた先入観とかが存在しない面白さがありました。  もう一つは、「台本をよんで演じる」ワーク。 ナメクジに食べられてしまったはずのトカゲ役のぷかぷかさんが、ナメクジ役のぷかぷかさんがピンチになって 「たすけて~...。」 とアドリブで言うと、 「いいよ~。」 と言って、手を差し伸べた場面。 気持ちがほっこり耕されたようでした。 “生産性のない人が社会に必要な理由” ということで高崎さんが話されていたこと、なぜ自分がダンスを続けているのか。というこ と “心を耕す” やっぱりこれなんだな~。と感じました。 知らず知らずのうちに、固まっていた自分の心も耕してもらえたようです。  
  • 「大金持ちになる」という目標に興味を持った人はほぼゼロでした。
     10月20日(土)第五期演劇ワークショップの3回目のワークショップをやりました。  「あの広場の歌」を歌いました。   ♪ 昔 広場に一本の柱   ここに立てよう  目には見えない柱を   昔 広場に一本の柱   ここではじまったぷかぷか  いまここで  www.youtube.com  みんなが元気に歌っている姿を見ると、 【障がいのある人たちに惚れ込み、彼らと一緒に生きていこうと、8年前、一本の柱を立てた。柱のまわりに、少しずつ少しずつ人が集まり、歌が生まれ、人は踊り出し、物語がはじまった】ことを、あらためて実感するのです。  来年1月27日の発表会の舞台だけでなく、12月8日(土)の神奈川県主催の「共生社会実現フォーラム」の舞台でも歌います。  ほらクマ学校の校歌を歌いました。  歌詞に「なんでもいいからいちばんになれ」とあるので、「大金持ちになるには、どうしたらいいか」を提案しました。「大金持ちになる」というのは、すごくわかりやすいと思ったのです。  ところがその目標に興味を持った人はほぼゼロでした。もっとほかのことで一番になりたいというのです。お金こそ一番価値があり、みんな共感してくれると思っていた私の浅はかさに、初っぱなから気がついたというわけです。  生産性はお金をどれだけ生み出すか、で測られます。お金こそ一番の価値であると社会のみんなが思っているからです。でも、ぷかぷかさんはそうじゃありませんでした。世の中、もっと大事なもの、大事にすべきものがあるんじゃないか、って。「大金持ちになる」という提案を、全然興味ないよ、っていわれて、あらためてぷかぷかさん達が提案する「価値」にこそ耳を傾けようと思いました。  クモは股の間から新しい蜘蛛の巣を生み出してどんどん大きくしていきます。宮澤賢治の原作では、はじめ2銭銅貨くらいの大きさの巣から始まって、だんだん大きくなり、えさがとれすぎて、そのえさが腐敗し、自滅するお話でした。ところがぷかぷかさん達の作った蜘蛛の巣は、どんどんたくさんの人を巻き込んで、お空の雲になった、という、なんだか夢のあるお話でした。  大きいことの価値がどこかですり替わっているのだと思いました。  ナメクジグループは「カタツムリンピック」で一等になること、タヌキは腹の太鼓で一等になることを提案しました。  午後は伊藤多恵さんをお招きして、ダンスのレッスンをやりました。これがすごく面白かった。  伊藤多恵さんはこんな方です。  一般財団法人 地域創造 - 公共ホール現代ダンス活性化事業 登録アーティスト  年明けにベトナムで公演、オペラシアターこんにゃく座の新作の振り付け、とものすごく忙しい方です。  『ほらクマ学校を卒業した三人』には、目の碧い蜂が登場するところがあります。ほらクマ先生のいう、「なんでもいいからいちばんにな〜れ」という価値観とは全く関係ないところで生きている蜂たちです。 その蜂たちのダンスを作りました。  なんとなくからだをほぐす体操をやっているのかと思っていたら、みんなの体が生き生きと動き始め、気がつくと創作ダンスをやっていました。場の作り方、場の動かし方がすばらしいと思いました。 www.youtube.com www.youtube.com www.youtube.com www.youtube.com 伊藤さんの感想 小さい子どもや年季の入った大人や眠そうな人やめちゃくちゃ元気な人や後ろにいる人や前にいる人や色々なメンバーがいるのに全体の空気が柔らかく、過ごしてきた時間が豊かだったんだなあと感じました。  今までにないくらい場がはずんだので、伊藤さんにはもう一回くらい来てもらおうと思っています。  発表まであと4回。どんな風にまとまって行くのか、ハラハラしながらの進行です。 
  • 「手も足もないナメクジが、どうしてすもうをとるんだ。それはおかしい」
     9月22日、第5期2回目の演劇ワークショップがありました。今期は宮澤賢治作『ほらクマ学校を卒業した三人』を取り上げるのですが、中身はわりとエグい話というか残酷な話なので(といっても、これは人間から見た感想であって、生き物にとっては相手を食べてしまうのは当たり前の話)、場合によっては、 「こんなのいや」 という人が出てくるかも知れません。それでも、すごく面白いところもあったり、ほらクマ先生のいう 「なんでもいいから一番になれ」 という教育方針は、今の社会が目指すものと重なるところがあって、そこをぷかぷかさんたちといっしょに 「それはちがう」 ということがうまく表現できないか、という思いがあります。  まずはお話の概要を進行役のはなちゃんに話してもらいました。 赤い手の長いクモと、銀いろのナメクジと、顔を洗ったことのないタヌキが一緒にほらクマ学校に入りました。ほらクマ先生は校歌の中でこんなことを教えました。   ♪ カメはのろまに 歩いて見せた ウサギだまされ昼寝した   早いはえらい 大きいはえらい 勝てばそれまで だまされたが悪い  なんでもいいから 一番にな〜れ なんでもいいから 一番になれ   なんでもいいから 一番にな〜れ なんでもいいから 一番になれ    三年たって三人は仲良くほらクマ学校を卒業しました。三人はうわべは大変仲よさそうにほらクマ先生を呼んで謝恩会をやったり、自分たちのお別れ会をやったりしていましたが、お互いにみな腹の中では 「へん、あいつらに何ができるもんか、これから誰が一番大きくえらくなるか見ていろ」 と、そのことばかり考えていました。  さて会も済んで、三人は銘々うちに帰ってきて、いよいよ習ったことを自分でほんとうにやることになりました。   ちゃうどそのときはかたくりの花の咲くころで、たくさんのたくさんの眼の青い蜂の仲間が、日光のなかをぶんぶんぶんぶん飛び交ひながら、一つ一つの小さな桃いろの花にあいさつして蜜や香料をもらったり、そのお礼に金色をした円い花粉をほかの花のところへ運んでやったり、あるいは新らしい木の芽からいらなくなったロウを集めて六角形の巣を築いたりもういそがしくにぎやかな春の入口になっていました。     クモは大きくなろうと、もう一生懸命であちこちに十も網をかけたり、夜も見張りをしたりしました。ところが困ったことに食物があんまりたまって、腐敗したのです。そして蜘 蛛の夫婦と子供にそれがうつりました。そこで四人は足のさきからだんだん腐れてべとべ とになり、ある日とうとう雨に流されてしまいました。  ナメクジは訪ねてきたカタツムリたちに親切でしたが、相撲をやって投げ飛ばし、気を失ったカタツムリやトカゲたちを食べて、どんどん大きくなりました。カエルも相撲をとって食べるつもりでしたが、塩をまかれ、ナメクジはとけてしまいました。    タヌキは自分のお寺へ帰っていましたが、腹が減って困っていました。訪ねてきたウサギに 「山猫大明神さまのおぼしめしじゃ、なまねこなまねこ」 と妖しいお経を上げながらウサギを食べてしまいます。続いてやってきたオオカミも食べてしまいます。 オオカミが持ってきた籾三升も飲み込んでしまいます。籾がお腹の中でどんどんふくらんで、25日めに狸はからだがゴム風船のようにふくらんでそれか らボローンと鳴って裂けてしまいました。 と、概要を話したあと、クモ、ナメクジ、タヌキのグループに分かれ、簡単なお話を作ってもらいました。グループに渡した台本は原作の一部分です。 クモの台本  「ここはどこでござりまするな。」                     と云いながらめくらのかげろうが杖をついてやって来 た。         「ここは宿屋ですよ。」                          と蜘蛛が云った。 かげろうはやれやれというように、巣へ腰をかけました。蜘蛛は走って出ました。そして                       「さあ、お茶をおあがりなさい。」                     と云いながらいきなりかげろうのおなかに噛みつきまし た。
かげろうはお茶をとろうとして出した手を空にあげて、バタバタもがきながら、        「あわれやむすめ、父親が、旅で果てたと聞いたなら」           と哀れな声で歌い出しました。                      「えい。やかましい。じたばたするな。」                  と蜘蛛が云いました。するとかげろうは手を合 せて            「お慈悲でございます。遺言のあいだ、ほんのしばらくお待ちなされて下されませ。」                                 と ねがいました。
蜘蛛もすこし哀れになって               「よし早くやれ。」                            といってかげろうの足をつかんで待っていました。かげろうはほんとうにあわれな細い声ではじめから歌い直しました。 「あはれやむすめちゝおやが、旅ではてたと聞いたなら、  ちさいあの手に白手甲、いとし巡礼の雨とかぜ。  非道の蜘蛛の網ざしき、さはるまいぞや。よるまいぞ。」  「小しゃくなことを。」                          と蜘蛛はただ一息に、かげろうを食い殺してしまいました。そし てしばらくそらを向いて、腹をこすってからちょっと眼をぱちぱちさせて、又糸をはきま した。 ナメクジの台本  ある日雨蛙がやって参りました。 「なめくじさん。こんにちは。少し水を呑ませませんか。」 と云いました。 なめくじはこの雨蛙もペロリとやりたかったので、思い切っていい声で申しました。 「蛙さん。これはいらっしゃい。水なんかいくらでもあげますよ。ちかごろはひでりです けれどもなあに云わばあなたと私は兄弟。ハッハハ。」 蛙はどくどくどくどく水を呑んでからとぼけたような顔をしてしばらくなめくじを見て から云いました。 「なめくじさん。ひとつすもうをとりましょうか。」 なめくじはうまいと、よろこびました。自分が云おうと思っていたのを蛙の方が云ったのです。こんな弱ったやつならば五へん投げつければ大ていペロリとやれる。 「とりましょう。よっしょ。そら。ハッハハ。」 かえるはひどく投げつけられました。 「もう一ぺんやりましょう。ハッハハ。よっしょ。そら。ハッハハ。」 かえるは又投げつ けられました。するとかえるは大へんあわててふところから塩のふくろを出して云いまし た。 「土俵へ塩をまかなくちゃだめだ。そら。シュウ。」 塩が白くそこらへちらばった。 なめくじが云いました。 「かえるさん。こんどはきっと私なんかまけますね。あなたは強いんだもの。ハッハハ。 よっしょ。そら。ハッハハ。」 蛙はひどく投げつけられました。 そして手足をひろげて青じろい腹を空に向けて死んだようになってしまいました。銀色 のなめくじは、すぐペロリとやろうと、そっちへ進みましたがどうしたのか足がうごきま せん。見るともう足が半分とけています。 「あ、やられた。塩だ。畜生。」 蛙はそれを聞くと、かばんのような大きな口を一ぱいにあけて笑いました。そしてなめくじにおじぎをして云いました。 「いや、さよなら。なめくじさん。とんだことになりましたね。」 なめくじが泣きそうになって、 「蛙さん。さよ......。」 と云ったときもう舌がとけました。雨蛙はひどく笑いながら 「さよならと云いたかったのでしょう。本当にさよならさよなら。わたしもうちへ帰って からたくさん泣いてあげますから。」 と云いながら一目散に帰って行った。 タヌキの台本 狼が籾を三升さげて来て、どうかお説教をねがいますと云いました。 そこで狸は云いました。                         「お前はものの命をとったことは、500や1000ではきくまいな。生きとし生けるものならば なにとて死にたいものがあろう。それをおまえは食ったのじゃ。早くざんげさっしゃれ。 でないとあとでえらい責苦にあうことじゃぞよ。おお恐ろしや。なまねこ。なまねこ。」                      狼はすっかりおびえあがって、たずねました。             
 「そんならどうしたらいいでしょう。」
                  狸が云いました。                               「わしは山ねこさまのお身代りじゃで、わしの云うとおりさっしゃれ。なまねこ、なまねこ…」
                           「どうしたらようございましょう。」                   「それはな。じっとしていさしゃれ。わしはお前のきばをぬくじゃ。このきばでいかほど ものの命をとったか。恐ろしいことじゃ。お前の目をつぶすじゃ。この目で何ほどのもの をにらみ殺したか、恐ろしいことじゃ。それから。なまねこ、なまねこ、なまねこ。お前 のみみをちょっとかじるじゃ。これは罰じゃ。なまねこ。なまねこ。こらえなされ。お前のあ たまをかじるじゃ。むにゃ、むにゃ。なまねこ。この世の中は堪忍が大事じゃ。なまねこなまねこ。 むにゃむにゃ。お前のあしをたべるじゃ。なかなかうまい。なまねこ。むにゃ。むにゃ。 おまえのせなかを食うじゃ。ここもうまい。むにゃむにゃむにゃ。」         とうとう狼はみんな食われてしまいました。
そして狸のはらの中で云いました。 「ここはまっくらだ。ああ、ここに兎の骨がある。誰が殺したろう。殺したやつはあとで 狸に説教されながらかじられるだろうぜ。」            狸はやかましいやかましい蓋をしてやろう。と云いながら狼の持って来た籾を三升風呂敷のまま呑みました。  ところが狸は次の日からどうもからだの工合がわるくなった。どういうわけか非常に腹 が痛くて、のどのところへちくちく刺さるものがある。 はじめは水を呑んだりしてごまかしていたけれども一日一日それが烈しくなってきてもう居ても立ってもいられなくなった。 とうとう狼をたべてから二十五日めに狸はからだがゴム風船のようにふくらんでそれか らボローンと鳴って裂けてしまった。  この台本をそのままやるのではなく、グループごとに話し合い、この台本から見えてくる情景をまず絵に描いてもらいました。  クモのグループにいたタカハシのおじさんは、台本を読んでも最初どういうお話かよくわからなかったのですが、ヨッシーが目の見えないカゲロウをやるといいだし、それがきっかけで絵が描き上がり、芝居ができました、とおっしゃっていました。  絵の発表 芝居の発表  ナメクジグループでは、ショーへーさんが 「手も足もないナメクジが、どうしてすもうをとるんだ。それはおかしい」 と言い出したのがきっかけで、手も足もあるナメクジを描き始め、そこからイメージが広がっていったそうです。  はじめは芝居をやる気があるのかないのかはっきりしなかったのに、いざ発表になると行司役をやったイクミさんは、練習にもなかったセリフ 「ひが〜し〜、なめくじやま〜、に〜し〜、かえるやま〜 なんていいだし、なんかすごいなぁ、とおっしゃってました。  みんなが絵を描いているそばで、こんな関係ができるところがぷかぷかのワークショップのいいところです。 絵の発表 芝居の発表 ひが〜し〜、なめくじやま〜 はっけよ〜い のこった、のこった… 塩をまかれて、ナメクジは足からとけてしまいました。  タヌキグループはテラちゃんがタヌキの絵を迷いなく一気に描き、それにあわせてハヤチャンがオオカミを描いたところから動きが始まりました。 絵の発表 芝居の発表 食べられるオオカミのパーツ(きば、頭、背中など)に別れて表現したところがすばらしかったと思います。  今回、とりあえず芝居を作っていく手がかりがつかめました。これをどう広げていくかが、そこにぷかぷかのメッセージがどれだけ込められるか。最初にメッセージありき、ではつまらないので、ぷかぷかさんと一緒に作っていく中で、どこまでそういったものを見つけられるか、だと思います。  10月には、クモにカゲロウが食べられるところをデフパペットシアターひとみの人たちに「浄瑠璃」でやってもらう予定です。 「あはれやむすめちゝおやが、旅ではてたと聞いたなら、  ちさいあの手に白手甲、いとし巡礼の雨とかぜ。  非道の蜘蛛の網ざしき、さはるまいぞや。よるまいぞ。」 また、青い目の蜂たちが飛び回るシーンをプロの振り付け師と一緒に作ろうと思っています。  これからどんどん面白くなります。
  • 自分のように悩んでいる子がいたら「大丈夫だよ」と抱きしめてあげたい
     先日ワークショップに参加した高校生のタイガくんは小学生の頃、吃音でいじめられたそうです。中学1年生の時に書いた作文をお母さんが見せてくれました。 ●●●  「そのしゃべり方、いらいらするからやめてくれる?」 小学校3年生の時、突然そういわれて、吃音のある僕は何も言い返すことができなかった……。僕の場合は、最初の語句がつっかえたり、「…っ、…っ」と言葉が出てこなくなったりしてしまう…。どもると、笑われたり、まねをされたり、「どもり星人」とからかわれたりした。そんな時、僕は一緒にふざけて笑っていたけれど、本当は体の中の水分が全部涙になってしまうような気がしていた。自分の伝えたいことがうまく伝えられないもどかしさ…。心の中は劣等感の塊で、僕は何度も自分が嫌いになった。  そんな僕が吃音と少しずつ向き合うことができるようになった。そのひとつはA君の存在だ。5年生になって、僕は特別支援級のA君と仲良くなった。ある時、A君と話をしていると、言葉が詰まって出てこなくなった。出そうとすればするほど、顔はゆがみ、肩に力が入る。その時A君は 「はいー。深呼吸100万回ー。落ち着いて。落ち着いて。」 と、僕の背中をさすってくれた。今まで笑われてばかりいた僕はびっくりした。そして自分のことをわかってもらえたことに、心が喜びでいっぱいになった。そしてA君は、自分は大きな音が苦手であることを話してくれ、「お互い、いろいろあるけれど、がんばろう!」と励ましてくれたのだ。A君の優しくて力強い手のひらのぬくもりが伝わった。  ふたつめは「言友会」のみなさんとの出会いだ。言友会は、吃音の人たちが集まっていろいろな思いを語り合うセルフヘルプグループ…  交流会で一番驚いたのは、吃音で言葉がつまっても、話すことをやめないで、誠実に最後まできちんと話していることだ。決して流ちょうとは言えないが、優しく相手に考えや思いを伝えている。ただ慰め合うだけの会ではなく、自分としっかり向き合って努力しているんだなと感動した。それに比べて、僕はどもりそうになると、話すのを途中でやめてしまうことが多かった…。「どもるのが悪い」と吃音のせいにしてきたが、本当は自分のせいだったのだと気づかされた。  この春、僕は中学生になった…。新しいクラス、新しい友だちに今まで伝えられずにいた自分の素直な気持ちを伝えてみた。 「なぜこんな話し方になるのかよくわからないんだけれど、吃音だから、こんなふうにどもっちゃうんだ。でも、みんなわかって欲しい。笑わないで欲しい。」 と。友だちは「そっか…」といって黙って聞いてくれた。「わかる、わかる、しんどいよね」と共感してくれる友だちもいて、僕は自分の気持ちを伝えてよかったと思った。自分の思いを受け止めてくれる友だちがいる。まるでA君が隣にいて、背中をさすってくれるように僕の体温があたたかくなった…   人は人によって傷つけられてしまうけれど、一方で、人によって救われることもある。「大丈夫だよ」「そのままでいいんだよ」とたった一言、いってもらうだけで気持ちが楽になり、明日もがんばろうと勇気が湧いてくる。  僕は、これから少しずつ大人になっていくけれど、吃音への理解がもっと深まり、吃音のある人が吃音のままでも大丈夫な社会になったらいいと思う。将来僕は小学校の先生になって、自分のように悩んでいる子がいたら「大丈夫だよ」と抱きしめてあげたい。相手の心の痛みがわかる人になりたい。僕がA君にしてもらったように。 ●●●  人は傷つき、悩むことで、こんなにも成長するんだとあらためて思いました。中1とは思えないくらい深い言葉があちこちにあります。  最初にタイガ君を救ったのが支援級の子どもだった、というところも意味深いものがあります。普通級の子どもがタイガ君を傷つけ、支援級の子どもがそれを救った、というのは何を物語っているのでしょう。  こんなすばらしい作文を書いたタイガ君も今、高校1年生。今回のワークショップにはなんと栃木県からお母さんと一緒にやってきました。朝5時に起き、なんと新幹線で来たそうです。タイガ君はとてもおとなしい方で、ワークショップ楽しんでるかなってちょっと心配するほどでした。  一方地元から参加したツカサ君もすごくおとなしくて、大丈夫かなと思っていました。 pukapuka-pan.hatenablog.com  ところがこの二人がワークショップの中で出会い、今度タイガ君がツカサ君の家に泊まりがけで遊びに来るそうです。お互い傷ついた者同士で、通じ合うものがあったのだと思います。これからがすごく楽しみです。
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