ぷかぷか日記

子どもの存在を否定的には見られないというか…

 先日、テレビで漫画家のヤマザキマリさんがアジアで活躍する女性を訪ねる番組がありました。その中でベトナムで農業支援をやっている女性を訪ねるところがあって、かつてベトナム戦争で枯れ葉剤が使われ、その影響で生まれた重い障害を負った女性が紹介されていました。とても辛い映像で、取材のあとヤマザキさんは涙を流しながら、ほんとうに怒っていました。私自身、もう辛くて、やりきれなくて、怒りながらちょっと涙が出てしまいました。

 枯れ葉剤の影響で障がいのある子どもがたくさん生まれました。でも、そういう子どもが生まれるから枯れ葉剤はだめだ、といういい方をするとき、じゃあ、生まれた子どもたちはどうなるのか、という問題が残ります。枯れ葉剤をまくのは犯罪的な行為だと思います。でも、その犯罪的な行為である理由として、障がいのある子どもが生まれる、という論理は、その生まれた子どもを見ていると、どこかすっきりしないものを感じるのです。子どもの存在を否定的には見られないというか…

 昔「世界は恐怖する」という反核の映画がありました。映画の中で広島の原爆によってこんな障害児が生まれた、と小頭症の子どもを隠し撮りした映像が流されるところがありました。その時私はその小頭症の子どもの映像に

「なに?この子、かいわいいじゃん」

なんて思ってしまったのです。重い映画の中で、その小頭症の子どもがちらっと笑う横顔が写っているシーンに、何か救われた気がしたことを今でも覚えています。その子どもを映画の主張のように否定的に見ることができなかったのです。

 テレビの映像も、ベトナム戦争の後遺症として紹介されながらも、お母さんが子どもの大きなおでこを、いとおしむように何度も何度もなでたり、農業支援をやっている女性が寝たきりの女性とおいしい食べ物の話をするシーンは、辛い映像の中で、ささやかな救いでした。

 私の中でまだまだ整理しきれない問題です。ご意見頂ければ幸いです。

 

 

 

 

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