ぷかぷか日記

なんだかがっかりした話

  今朝の朝日新聞の「社説余滴」。事故で亡くなった障がいのある人の命をどのように価値づけるかの話です。

 聴覚障害を持つ11才の女性がショベルカーにはねられ死亡した事故の賠償を求める訴訟。被告側は事故がなければ生徒が得られたであろう逸失利益を障害を理由に4割低く算定した。遺族側は障がい者が働く環境が整備されつつあり、減額すべきでないと主張。

 「逸失利益は、死亡した存在に金銭的な値を付ける方法として便宜的に用いられてきた。しかし本来、生命はそれぞれ等しく価値があるものだ。とくにあらゆる可能性が開けていた子どもについて、平均賃金をもとに性別、障害の有無などで差をつける方法が最善なのか。問い直されるべきときだ。」と書いている。

digital.asahi.com

 30年前の1992年発行の小さな雑誌に、障がいのある子どもが亡くなった時の逸失利益について書いています。

  『一生働いて稼ぐお金が120万円!』というタイトルです。

 5年前、神奈川県の養護学校で水泳の授業中に自閉症の生徒が水死した。担当教諭の指導に過失があったとして両親が県などを相手に損害賠償請求の訴訟を起こし、その判決が先日下った。賠償額については一般の高校生と同じ逸失利益を算定すべきだとして約7000万円を原告は求めていたが、横浜地裁での判決は養護学校の卒業生の進路としては地域作業所に入るケースが最も多いので、水死した生徒についてもその蓋然性が最も高いと判断、地域作業所入所者の平均収入を元に生涯で約120万円を算定したと新聞に載っていた。

 一人の人間が一生の間に得るであろう利益の算定がわずかに120万円とはずいぶんひどい話だと思う。思いつつ、これはしかし私たちの社会が養護学校の卒業生達を追い込んでいる現状ではないかと、あらためて愕然とする。

 一人の人間が死んだ時、たとえその人が地域作業所に入る可能性が一番高いにせよ、一生かかって稼ぐ金が120万円だと算定するのはなんとも悲しい話ではないか。全く働けない、言い換えれば生産活動におよそ関与できない人の場合はゼロということになるのだろうか。

 たとえ働けなくても、その人がいないと困るという人間関係はたくさんあるはず。その関係は働いている人達をしっかりと支えてもいるだろう。そういう関係を含みながらこの社会は成り立っているのではなかったか。そういう関係を含んでいるからこそ、社会のあちこちにホッとできるようなゆるやかさがあるのだと思う。

 そういったことを考えていく時、先の120万円という算定は、その人のまわりに広がっている人間関係と、それが生み出す豊かなものの価値をどう判断するかがすっぽりと抜け落ちているのではないか。

 そういった算定がまかり通る社会は、お互いがますます生きづらくなるだろうと思う。

 

 これを書いてから30年。社会はずいぶん進んだに違いないと思っていましたが、

「平均賃金をもとに性別、障害の有無などで差をつける方法が最善なのか。問い直されるべきときだ」

などと書いてあったりして、

「ああ、まだこんなこという時代なんだ」

とあらためてがっかりしました。

 

 あゆちゃんはいわゆる生産活動はむつかしい方です。

ayuchan.jp

 でもたくさんの人達があゆちゃんのまわりに集まり、あゆちゃんから元気をもらっています。人を元気にするというのは、とても大事な、価値ある仕事です。私たちにはなかなかできない仕事です。そういう仕事の価値をきちんと評価できるかどうか、私たちの社会が、今問われているように思うのです。

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