ぷかぷか日記

障がいのある人と生きるということ

  • FACE of WONDERの世界2023
    先日FACE of WONDERの世界2023に行ってきました。楽しい作品で埋め尽くされていました。             パレスチナの子どもたちの作品もありました。         お城の入り口を開けると ぷかぷかさんたちの作品も頑張っていました。 今年もTOSHIKI画伯に似顔絵を描いてもらいました。                               
  • インクルーシブ教育
    インクルーシブ教育について考えるすばらしい番組(NHKプラスに登録すると見られます。メールアドレスがあれば登録できます) https://plus.nhk.jp/watch/st/e1_2023050917763  全盲の子どもの発言がすばらしい。障がいのある子どもたちを受け入れている学校の子どもたちの発言もすばらしい。お互いがこうやって豊かに育っていく。  子どもたちに比べて大人たちはまだまだという感じで、ここを変えるにはどうしたらいいんだろうと思う。 【豊中に学ぶ】 www.kanaloco.jp  大阪の豊中市立南桜塚小学校は、障害を理由に学びの場を分けない取り組みで注目を集めている。過日、30年ほど前に豊中の小学校に在籍し同様の環境で育った車いす利用者らとともに訪問した  ▼昼時に4年生の教室に行くと、かっぽう着姿の全盲の子がクラスメートに支えられながら給食を配って歩いていた。やがて昼休みが終わり、校庭で遊んでいたダウン症の4年生が階段でへたり込んでしまうと、一緒にいた子たちが付き添いながら教室に戻っていった  ▼障害のある子が当たり前にそばにいて、クラスで役割を担い、支え合う。校内が柔らかな雰囲気に包まれているのは、誰もがありのままの自分でいいと思える空間だからだろう  ▼校長は「普通の学校ですし、特別なことは何もしてないですよ」と謙遜するが、豊中の教育は誰も排除せずに関係性を紡ぐことを大事にしてきたという。地域で共に生きていくのだから共に学ぶのは当たり前という考えが根付いている  ▼神奈川では障害のある子が小学校就学を拒否される事例が相次いでいる。学びの場を分ける傾向も根強く、一緒に学ぶ場合も必要な支援が得られない事例が後を絶たない。国連は昨秋、共に学ぶ教育を推進するよう勧告した。豊中から学ぶべきことは多い。  鶴見でそのインクルーシブ教育について考える集まりがあります。興味のある方はぜひ!
  • 「いっしょに生きていった方がトク!」って思えるような本を書こうかな
    「障がいのある人たちとはいっしょに生きていった方がトク!」って思えるような本を書こうかなと思っています。  新しく原稿を書くのではなく、今まで書いたブログが2300本もあるので、それをベースに加筆訂正をしながら原稿にする予定です。  よくある「ともに生きる社会を作ろう」とか「共生社会を作ろう」ではなく、どこまでも「いっしょに生きていった方がトク!」という泥臭い言葉で彼らといっしょに生きる意味を考えるような本になれば、と思っています。  彼らと一緒に過ごす日々は、ほんとうに楽しいです。ただ楽しいだけでなく、私たちの暮らす社会が豊かになります。  たとえばこんな冊子があります。           これにぷかぷかさんたちの描いた絵が加わると、こんな感じになります。  これが彼らといっしょに生きることであり、結果、社会が豊かになるという意味です。こういう絵を描く人とは一緒に生きていった方がいい。しみじみそう思うのです。  「そうだね、彼らとはいっしょに生きていった方がトク!だね」って思えるような、そんな本になれば、と思っています。どんな本ができあがるか、お楽しみに。
  • あなたが生きていること、そのこと自体がすばらしい。
    NPO法人抱僕の発行する「ほうぼくサポーターかわら版NO.20に載っていた「THE FUTURE TIME 対談 後藤政文×奥田智志」はすばらしい対談でした。 http://www.thefuturetimes.jp/archive/houboku/index.html  中でもやまゆり園事件に関する奥田さんの見解は、あらためて頷けるものがたくさんありました。  社会の何があの事件を引き起こしたのか。  役に立つ人間なのか、という判断基準が頑としてこの社会にはあります。抱僕はホームレスの人達との関わりに中で、 「あなたが生きていること、そのこと自体がすばらしい」 といいます。役に立つとか立たないではなく、生きてることそのものがすばらしい、と。 「あの相模原事件の植松君にも会いに行きましたけども、あの植松君と会ってしゃべった時も、彼を全然擁護する、やったことを擁護する気はないけども、ひどいことをしてるわけですから、駄目なことは駄目だけども、やっぱりね、あの人の発想の中に時代の中で生きてきた人の感覚を見るんですね。彼だけが特異な異質なものじゃなくて、やっぱり時代の子だなと思うんですね、『意味がない命』とか言っちゃうのは」  私たちは、あの事件のあと、そういった問題を自分の問題としてどれだけ掘り下げたのだろうと思うのです。『意味がない命』と、ふと思ってしまったことはないのか? 「彼自身がたぶん言われてきたことであろうし言ってきたことなんだろうと。こっちの自分とあっちの自分は、どこか重なってるように、拘置所で会った時にすごく感じましたね。面会の最後に、『君は役に立たない人間は死ねというのか』といったら、そうだと言うから、『じゃあ君に聞くけども、君はあの事件の前、役に立つ人間だったのか』と聞いたらね、彼、ぐっと考えてね、『僕はあまり役に立ちませんでした』って答えたんです。その答えを聞いて、ああ、この人も、あの自分が発した『意味のない命』という言葉の中に生きてきて、その意味のない命なのかという問いの中におびえてきた1人なんだろうなって。だからといって、あんなことをするかといったら、してはいけないんだけど」  生産性という評価に私たちはどれだけ振り回されているのだろうと思います。そういう社会があの事件を生み出した、ということ。そのことの痛みをどれだけ私たちは自分事として感じたのか。 「ああいう犯罪が起きた時に、少なからず本人の資質もあるでしょうけれども、社会がある種、育ててしまったというか、育んでしまった思想や思考でもある。だから自分は無関係だとはいつも思えないんです」  どこかで植松を突き放していた自分。そうではないと、あらためて思う。  「たとえヒットラーであろうと、やっぱり時代が生み出していった面というのは、あると思うんです。彼だけが特異な存在。まあ特異ですよ。非常に特異だけど。でも、じゃあ全く同じ時代じゃない全然違う土地、時代、違う歴史の中に彼が生まれて、あの結果になるかというと、ならないんじゃないかなという。まあ何か、そのあたりでいうと、本当に社会のあり方をもっと考えないと非常にまずいところにきていると」  非常にまずいところにきている。この言葉の重さをしっかり受け止めていかないと、またあのような事件は起きる。実際、施設での信じがたいほどの虐待が事件後もずっと続いている。  「あの相模原の事件も、そもそも論として、命そのものには価値を見いだしてないんですよね。そこに生産性が伴うかとか、それが何を生み出したかというところに価値を見いだそうとしてる。だから、あの植松君も裁判の中で、ぺろっと、こんなこと言うんですね。『もし自分が歌手か野球選手だったら、こんなことしてない』って。要するに、今の自分には価値がないって彼は自分自身、思い込んでるわけで。生きてるだけじゃ駄目なんだと。だから、やっぱりみんなからちゃんと評価されるような、大谷さんみたいにならないと駄目だし。もしなっていたら、こんな事件してないと言うんですよ。そうなると本当に、あれヘイトクライムでも何でもない。彼のゆがんだ自己実現の中から起こっている事件なんですよ」  ゆがんだ自己実現が起こした事件。どうしてそこまでゆがんでしまったのか。そのゆがみに、私は関与していないのか。
  • 障がいのある人達の絵が、商業デザイン化すると、何を生み出すのか。
    4月27日の東京新聞に障がいのある人達の絵をデザイナーさんが商品にして、きちんと収益を生み出している話が載っていました。 www.tokyo-np.co.jp  障がいのある人の絵→商業デザイン化→商品として街に広がります。  障がいのある人達の絵がこんな風にして社会に広がっていくと何が起こるのでしょう。障がいのある人達の描いた絵として、なんとなく上から目線で見るのではなく、ちゃんとした商品として見ることになります。障がいのある人達の絵とフラットな目線で向き合えるということです。それが商業デザイン化することのいいところだと思います。こういうことが社会を少しずつ変えていきます。  すばらしい絵は社会を豊かにします。障がいのある人たちといっしょに生きていくと社会が豊かになる、ということが彼らの絵を商業デザイン化することで、より多くの人達と共有できるような気がします。彼らの素晴らしい絵を見ていると、障害のある人達は支援するとか、何かやってあげるとかしないとだめな人達ではなく、そのままの彼らがとても魅力的で、社会を豊かにする人達、ということに気がつきます。たくさんの人がそんなふうに思えるようになると、社会はお互いがもっと生きやすいものになります。  障がいのある人達の絵を商業デザイン化すると、描いた本人がまっとうな収益が得られるだけでなく、みんながより生きやすい社会へ変わっていく、という一石二鳥の効果があるのではないかと思うのです。  デザイナーさんに入ってもらわなくても、彼らの絵は十分魅力的なので、見せ方さえ工夫すればすばらしい商品になります。添付したバンダナはぷかぷかで販売中です。  こんな絵の入ったバンダナが街に広がれば、街は楽しくなります。こんな絵を描く人は街にいた方がいい、街に必要な人、とみんなが思えます。
  • 彼らがいることでみんなが生きやすい社会になります。それって、豊かで素敵なこと。
    パン屋に古い新聞の切り抜きがはってあります。やまゆり園事件から1年目にぷかぷかを取材し、書かれたものです。とてもいい記事なので紹介します。  一線は越えないにせよ、事件前から社会の中に「障害者は負担だ、お荷物だ」という考え方や「なんとなく嫌」という風潮はあったと思います。たとえばバスの中で障害者と乗り合わせた時「こっちに来ないで欲しい」と感じてしまったことはありませんか。  小学校の時から、障害の有無でわけられることが当たり前になっています。何かの機会がなければ、障がいがある人とおつきあいすることはなく、彼らのことはわかりません。ただ「なんとなく嫌だな」というイメージだけが一人歩きします。  措置入院や優生思想に関する議論ももちろん大事です。でも、それらが私たちの普段の暮らしとどれだけ接点がある問題かというと、とたんにボヤッとして「私には関係ない話」で終わってしまいます。大切なのは、日々の生活の中で関係性を作っていくことだと思うのです。  2010年、横浜市緑区の団地の商店街にオープンした「ぷかぷか」では知的障がいの人たちが40人ほど働いています。お店の運営以外に地域の人とぷかぷかさんが一緒に楽しめるパン教室を開いたり、地域の人とぷかぷかさんが一緒になって芝居作りをする演劇ワークショップをやったりしています。  そこでは、支援する側・される側という立場の違いはありません。「障害者への理解を」といった目的もありません。純粋に人間同士、ただ一緒に何かをする中で関係性が育っていきます。  事件の被告はどうだったのでしょう。障がいのある人ときちんと「人として」おつきあいしていたのでしょうか。障がいのある人達のことをよく知らないまま、ふくらんだマイナスのイメージが爆発して事件に至ったのではないでしょうか。  「ぷかぷか」のブログには、事件について考える投稿がたくさんあります。事件には憤りを感じます。批判したいこともたくさんあります。でも、批判しているだけでは新しい一歩を踏み出せません。前に進む。それが生きているということだと思います。  いつも発信しているのは「障がいのある人たちとはいっしょに生きていった方がいいよ」というメッセージです。「共生すべき」「差別はいかん」みたいな堅苦しいものではなく、「いっしょに生きていく方が人生お得だよ、楽しいよ」という感じです。  うらやましいほど自由だったり、あっという間に人の気持ちをほぐしたり。彼らはそうやって街を耕しています。彼らがいることでみんなが生きやすい社会になります。それって、豊かで素敵なことだと思うのです。
  • 今日は素敵な「かぐやびより」でしたね。
    また「かぐやびより」見てきました。3回目です。      何度見てもいい映画です。心がゆったりとほぐれていきます。あたたかな気持ちになれます。いっしょに生きていくことに希望が持てます。  冒頭、いきなり鶏小屋が出てきます。餌をやったり、鶏が小屋から飛び出して、コッココッコと走り回ったり、この泥臭い雰囲気、大好きです。鶏小屋の匂いまで感じます。この匂い、体の芯がムグムグとうごめきます。  いつも寝っ転がっていたり、歌を歌いながら踊ってたりする青年が登場します。その人のたたずまいがいい。いい人生やってるなぁ、となんだか嬉しくなります。こんな風にありのままの自分でいられる場所は、誰にとっても居心地のいい場所。   みんなでごはんを食べる場面がすばらしくいい。大家族、といった感じのあたたかな雰囲気。障がいのある人達に何かをやってあげるとかっていう雰囲気がないところがいい。上から目線を感じないごく普通のおつきあい。  今度、ごはんを食べに行こう。見学、とかじゃなくて。  「かぐやびより」は障がいのある人達がいれば、どこでも実現できる心地いい日です。実現するためのコツは、彼らに何かやってあげるという上から目線を捨て、ふつうにつきあうことです。彼らと一緒に心地いい「かぐやびより」を楽しむことです。  日本のあちこちで「今日は素敵な『かぐやびより』でしたね」ってあいさつがかわせるようになるといいな。 www.youtube.com 映画『かぐやびより』、あなたの街でもぜひ上映してみてください。 映画の内容、問い合わせはこちら tsumura-eiga.com
  • 画期的な条例ができるようですが…
    差別をなくし、共生社会を実現させるための画期的な条例が相模原市でできます。やまゆり園事件の起こった地元だけに、条例実現の思いは強いようです。 www.kanaloco.jp www.kanaloco.jp  「津久井やまゆり園事件を経験した市として、誰一人取り残さない、障害の有無などで差別されることがない、みんなが自分らしく地域でいきていける、多様性のある社会をつくっていきたい。」と相模原市長。 「事件を起こした施設の元職員は意思疎通のできない人間は社会に役に立たず、負担になるので殺害したと語った。元職員一人の問題ではなく、賛同する書き込みは交流サイト(SNS)で数多く流された。社会全体を覆っている優生思想は根深い。」と相模原市人権施策審議会会長。  「社会全体を覆っている優生思想は根深い。」と云われている中で、私たちに何ができるのだろう。 「人権侵害全般に対応するに当たって、勧告を行ってもやめない悪質なヘイトスピーチに対してはやはり罰則が必要」だとは思います。でも、罰則があれば人権侵害が起きないのかと云えば、決してそうではありません。  では、どうすればいいのか。やはり人権を侵害されがちな社会的に弱い立場の人達と人としての関係を丁寧に作っていくことだと思います。  ぷかぷかは街の人たちに障がいのある人達と出会って欲しいと思い、街の中に彼らの働くお店を作りました。たくさんの人達が彼らと出会い、「ぷかぷかさんが好き!」というファンまで現れました。  こういうおつきあいを丁寧に作っていくこと、それが人権を尊重する社会、差別のない社会を作っていくことにつながるのだと思います。  ぷかぷかは、障がいのある人たちといっしょにいい一日を作ることを日々の目標にしています。お互い「いい一日だったね」って言える日々をコツコツ積み上げていくこと。それは決してむつかしいことではないし、その気になれば誰にでもできることです。
  • 2023年ぷかぷか旅行に行ってきました。
    4月13日(木)、14日(金)千葉方面にぷかぷか旅行に行ってきました。BUB RESORTというところでコテージ、もしくはドーム型テントに泊まって様々なアクティビティを体験をする旅です。               BUB RESORTに到着  フェイスペインティング カリンバ作り カリンバは「親指ピアノ」とも呼ばれ、箱に取り付けたヘアピンを親指ではじき、音を出します。下の写真は板の上にヘアピンを並べていますが、今回は音が響くように板の部分が箱になっています。        箱を作るための板を切り出します。 切り出した板をサンドペーパーで磨きます。 インストラクターさんとお話ししながら作業を進めます。 箱を組み立て ヘアピンを留める位置に鉛筆で印をつけます。 印をつけたところに錐で穴を開けます。 アナのところにヘアピンをつけていきます。 なぜかダンスを踊っている人がいたり チョコレート作り まずはカカオ豆を煎ります。 煎ったカカオ豆の殻をとります。 殻をとったカカオ豆をフードプロセッサーにかけ、更にすり鉢ですりつぶします。 すりつぶしたカカオ豆を湯煎し、溶けてきたら型に入れて冷蔵庫へ。 翌日固まったチョコレートを味見しましたが、とてもワイルドな味でした。 クラフトジュース作り イチゴとバナナを手回しミキサーにかけます。 ミキサーにかけたイチゴとバナナを生クリームと混ぜ、ふりふりします。 www.youtube.com www.youtube.com ふりふりしたものに牛乳を加えて完成 和紙のミニボール作り ミニボールに和紙を貼り付けます。 夕食はバーベキュー 夜はキャンプファイヤー 朝ご飯はバイキング バンガローとドーム型テント アーチェリー マシュマロ 高秀牧場へ www.takahide-dairyfarm.com トイレに貼ってあった張り紙がすばらしい。牧場の姿勢がよくわかります。 いすみ鉄道 貸し切りで、食事。 楽しかったね。お疲れ様でした。
  • 異彩を、放て。
      タイトルがおもしろそうなので買ったのですが、いまいち盛り上がらないというか、「すったもんだ」の様々な事例に対するアドバイス(井上先生の解説)が真面目すぎて、「すったもんだ」の熱いエネルギーがしぼんでしまう感じ。   下の事例も、こんなにうまくいくはずないよな、と私なんかは思ってしまいます。多分このパニックを起こす子どものおかげでクラスはすったもんだの状態だったと思うのですが、井上先生の教科書のような解説には、そのすったもんだの中身がさっぱり見えません。極めて正しい解説で、子どものパニックに思い悩んでいる親御さんにとっては、ちょっと楽になるかも知れませんが、何か大事なものを見落としてる気がするのです。  パニックを起こす子どものまわりはすったもんだの大混乱であったと思います。そんな中で子どもたちは何を思い、何に気づき、どんなことをしたのか、それによって現場が、そして何よりも子どもたち自身がどんな風に変わっていったのか、ということこそ丁寧に書いて欲しかったと思うのです。  本の帯にはこんな言葉があります。 「自閉症スペクトラム症。  その、ひとくくりの言葉にも、無数の個性がある。  強烈なこだわり、大胆な発想、研ぎ澄まされた集中力…  “普通”じゃない、ということ。  それは同時に、可能性だと思う。」  だからこそ、彼らの引き起こす「すったもんだ」からは、今までにない新しいものが生まれる可能性があります。「すったもんだ」を引き起こす彼らに感謝!くらいの気持ちでこの本がまとまっていれば、もっとおもしろい本になってた気がします。ちょっともったいない。  帯の言葉を書いた(株)ヘラルボニーの商品のラベルにすばらしい言葉がありました。 「異彩を、放て」 まさにこれです。 その異彩を私たちは見落としていないか?
  • 最近の日記
    カテゴリ
    タグ
    月別アーカイブ