ぷかぷか日記

相模原障害者殺傷事件を超えるために

  • あ、結婚されたんですね。おめでとうございます。
     相模原障害者殺傷事件に関する本が出ました。横浜地裁でおこなわれた裁判を中心に、取材班が被告と重ねた面会の記録も含めて、新聞に載った記事を大幅に加筆したもの。  あーだコーダの論評を挟まず、記録を残すことを大事にしたところがいいと思いました。20年後、30年後に事件を振り返るとき、こういった記録こそが大事な意味を持ってくると思います。   論評の代わりに途中に挟み込まれた担当記者の短いコラムが、重い内容の本の中で、ほっとするものになっています。  植松死刑囚に面会に行っていろんな話をします。 《イスラム国や難民のニュースを見て「大変な社会だと思った」と話し、「人の役に立ちたい」「劣等感がある」とも述べた。自分も抱いたことがある感情だ。同じ時代を生きる人間だと実感した。》   この感覚がいいなと思いました。同じ時代を生きる人間として、植松に向き合い、彼の思いに迫るその姿勢に拍手です。  そしてなによりもそういうことが正直に書けるこの本の製作環境がいいと思いました。  美帆さんのお母さんの手記をパソコンに打ち込み、誤字脱字のチェックのために音読をはじめたのですが、 《声に出すと嗚咽をこらえきれず、続けられなくなった。》 と書いた記者もいました。新聞の製作現場ではこういったこともあることを初めて知りました。ま、人が作っているのですから、あって当たり前なのですが、そういうことも正直に書いているところがいいですね。こういう感覚で、これからもこの事件を追い続けて欲しいと思いました。  裁判を重度障害の息子さんと一緒に傍聴した土屋義生さんを取材した記者は 《「自分に障がいのある子が生まれるとは想像もしなかった」。壮真くんが生まれたときのことを、土屋さんはこう振り返る。  「もし自分に障がいのある子が生まれたら、どう思うだろう」。私は取材しながら何度も考えた。  社会人3年目、幼い頃から憧れた記者の仕事にのめり込む一方で、「いつか子どもを」と思う。障害を、我がことととらえたのは初めてだった。障害を持つこと、障害を持つ人と生きていくことは、いつ誰にでも起こりうることなのだと気づかされた。  いつか土屋さんと同じ状況に置かれたとして、私は前を向いて生きることができるだろうか。すぐには難しいかも知れないが、家族、あるいは自分の障害と正面から向き合い、生きていきたいと思う。》  自分の気持ちを正直に書いた素晴らしいコラムだと思いました。事件は、こういうことを私たちに問うたのだとあらためて思います。障がいのある人たちとどんな風に私たちは生きていくのか、ということ。  障がいのある人たちを前に、困ったり、戸惑ったり、一緒に笑ったりしながら、私たちの人生は豊かになっていきます。  土屋さんを取材したNHKの映像で、壮真くんが誕生日のろうそくを消そうとした場面で壮真くんの兄弟たちの笑い声が聞こえました。壮真くんを中心に幸せな日々を過ごしている家族が見えました。  植松が発信した「障害者はいない方がいい」ではなく、「障がいのある人との生活も悪くないよ」「幸せだよ」と、壮真くんの一家は日々語っています。幼い兄弟たちの笑い声は、幸せそのものです。  ぷかぷかは「彼らとはいっしょに生きていった方がぜったいトク!」と日々発信しています。ぷかぷかに来ると、そのおトク感が実感できます。ぷかぷかのお店が繁盛(?)しているのは、なんといっても彼らのおかげなのですから。  植松死刑囚に関して、この本で意外な発見をしました。  面会に行った記者の指輪に気がつき、 《「あ、神宮司さん、結婚されたんですね。おめでとうございます。」と言った。》  ここはつい笑ってしまいました。こういう感覚を持ちながら、どうして日々接していた重度障害の人たちを出会うことがなかったんだろうと思いました。  意思疎通が難しくても、毎日接していれば、つい一緒に笑ってしまう、といったことはあったはずです。そういうときは心が緩みます。相手に優しい気持ちになれます。  そういう人と人のおつきあいすらなかった職場だったのかと、あらためて思いました。相手と人として出会っていれば、相手を殺してしまうような事件は起こらなかったと思うのです。  朝日新聞出版 760円です。
  • 相手が人であることを忘れてしまっています
    障害者施設における虐待問題の記事です。 mainichi.jp ●虐待の要因を「問題行動を抑える技術にしか考えが及ばず、利用者にふさわしい支援を行うという基本的な理念が不足していた」と指摘。  問題行動があるから支援が必要、と考え、その支援の中身が暴力でしかないのが虐待。利用者さんが重度障害者であれば、その虐待を訴えることもできません。そばにいる人が気づくしかないと思います。やまゆり園では13時間も拘束された女性がいたようですが(2年前のNHKスペシャル)、にもかかわらず誰も「それはおかしい」と指摘する人がいなかったのは、誰が考えても異常な環境です。  暴力に対する感覚が麻痺しています。相手が人であることを忘れてしまっています。だから暴力を振るうことに何の抵抗もないのだと思います。  「支援」という上から目線の関係は、相手と人としてつきあう、ということを阻害するのではないかと思います。そういう観点からの検証こそ必要な気がします。  「基本的な理念が不足していた」という指摘は当たっていますが、そういう理屈っぽい話以前に、利用者さんたちと人として出会ってなかったことこそ、いちばんの問題だと思います。 ●「事件が障害者施設の職員によって起こされたという事実をわれわれ入所施設の管理者は重く受け止める必要がある。法人は自らの支援を見直すべきだし、第三者による検証も必要だ」  やまゆり園は、事件はすべて植松死刑囚のせいにし、自らの支援の中身を見直すことは一切しませんでした。だからこそ、事件後も虐待が続いているのだと思います。こんな法人に支援施設を任せていいのかと思います。  そもそも、あれだけの事件を起こしながら運営を続けていること自体がおかしいと思います。仮にぷかぷかであのような事件が起こったら、多分ぷかぷかはやっていけません。どうしてやまゆり園はやっていけるのか。監督責任者の神奈川県は、どうして許すのか、説明すべきだと思います。
  • ぷかぷかさんたちの素朴な疑問に、彼らに届く言葉できちんと答えて欲しい
    いっしょにいい一日を作る関係です。  いっしょに生きていくって、こういう日々を積み重ねることです。  「いい一日だったね」 って、お互いが言い合えるような日々を作っていこうよ、というのがぷかぷかです。  何かができるように「支援」するのではなく、いっしょにいい一日を生きること、それをぷかぷかは大事にしています。  いい一日からはたくさんの笑顔が生まれます。みんなが笑顔でいること、人が生きる上で、一番大事にしたいことです。   職員とはこういう日々をいっしょに作っていく関係が当たり前だと思っているぷかぷかさんたちにとっては、どうしてやまゆり園で職員が利用者さんの命を奪うような事件が起こったのか、理解できません。そんなぷかぷかさんたちが先日、事件に対する素朴な疑問を検証委員会に対する要望書にして知事に渡しに行きました。  やまゆり園は犯人の特異性の問題として事件を終わらせたいようですが、果たしてそれですむのでしょうか。   事件後、つまり犯人がいなくなったあとも虐待があった、と検証委員会の中間報告にはあります。犯人の特異性だけを事件の原因にすることは無理があります。  裁判の中で「やまゆり園では利用者さんと人間扱いしてなかった」という犯人の証言もありました。  先日要望書を渡しに行ったとき、知事はこんないい顔をしました。 ぷかぷかさんがいることで、ふっと心が解きほぐれたのだろうと思います。その解きほぐれた心で検証して欲しいと思います。そしてぷかぷかさんたちの素朴な疑問に、彼らに届く言葉できちんと答えて欲しいと思います。
  • 「あすへの一歩」
     今日はでんぱたに給食作りに行きました。その時に隣のマンションから、声がうるさい、と苦情が来たという話を聞きました。よく声を出すメンバーさんがいるので大丈夫かな、とは思っていましたが、やっぱり苦情が来たようでした。隣のマンションとは間に駐車場があるのですが、それでも苦情が来たというのはとてもやっかいです。  どうするのか、これからが勝負所です。  ぷかぷかもできた当初、声がうるさい!と苦情の電話が入ったり、同じところを行ったり来たりされるとメシがまずい、といわれたり、ぷかぷか三軒長屋の企画を立てたときは「障害者施設がアメーバのように広がっていくのは不気味だ」なんて言われたり、本当に散々な日々でした。  あれから10年、今日NHK首都圏ネットワーク「あすへの一歩」でぷかぷかが紹介されたのですが、ぷかぷかさんの存在が地域の人たちにとってすごく大事な存在になっていることがよくわかりました。   一人暮らしの金原さんはいつも街で声をかけられ、とてもうれしいといってました。  金原さんはありがとうカードをいっぱい貯めていました。思いつきではじめた「ありがとうカード」でしたが、こんな風にぷかぷかさんと地域の人たちをしっかり結びつけているのですね。ありがとうカードはぷかぷかさんのお客さんへの思い、こんなに並んだありがとうカードは金原さんのぷかぷかさんへの思い。お互いのそんな思いがありがとうカードを通してつながっています。  そしてお店はもう生活の一部だと  ここまで来ると、障害があるとかないとか全く関係ありません。生活なんだから、いて当たり前、という感覚なのだと思います。金原さんにとっては、こんなのテレビで取材する方がおかしい、と思うくらい、ぷかぷかさんとの関係はごく当たり前の日常風景なんだろうと思います。  「声がうるさい!」と苦情の電話が入った頃から10年。苦情の電話に心が折れそうになりながらも、それでも気を取り直して「いい一日だったね」ってお互いいえる日々をぷかぷかさんと一緒に積み重ねて10年。映像見ながら、なんかね、いろんなことが思い出されて、ちょっと涙が出そうでした。  「声がうるさい!」と苦情の来たでんぱたもこれからが大変です。こういうトラブルに特効薬はありません。ただひたすらぷかぷかさんたちといっしょにいい一日を作り続けるだけです。近所の人もいつかきっとそのいい一日に気がつきます。  心がめげることがあっても、ぷかぷかさんがそばにいれば大丈夫です。彼らがそばにいれば、いい顔になって、絶対いい一日になります。「あすへの一歩」です。
  • あすへの一歩
     ぷかぷかさんがいないことで、ぷかぷかさんがいることの意味がより鮮明になるのではないかと、コロナでお店を休みにしているときからNHKが何度か取材に来ていました。昨日もお店の様子やぷかぷかのファンの方の取材をし、今週金曜日6月26日(金)18時10分頃からの首都圏ネットワーク「あすへの一歩」で放送するそうです。相模原障害者殺傷事件を受けての番組です。首都圏以外の方は、サイトにアップされてから見て下さい。2年ほど前のぷかぷかの映像もあります。 www.nhk.or.jp  今日も事件について今どう思うかを聞かれました。裁判が終わり、死刑の判決が出て、もうおしまい、という雰囲気ですが、先日の和希君の就学訴訟の敗訴に見られたように、障がいのある人を排除する社会は事件後も変わらずあります。その社会を何とかしよう、などと大きなことは考えずに、目の前のぷかぷかさんたちと一緒に「いい一日だったね」ってお互いいえる日々を積み重ねていく。それが事件を超える社会を作っていくことになると思います。  あーだこーだ言いたいことはいっぱいありますが、あーだこーだ言っても社会は何も変わりません。それよりも彼らと楽しい日々を過ごすこと、そんな日々を黙々と積み重ねること。そうすると地域の人たちにとっても、いつの間にか彼らがなくてはならない大切な存在になってきます。そのことが多分6月26日(金)の「あすへの一歩」の映像で見えてくると思います。すごく楽しみにしています。
  • いい記事だったね、で終わらせるのではなく
     少し前の記事ですが、神奈川新聞の「就学訴訟の波紋(下)」は、和希君を排除したのは、行政と司法だけだったのか、という問題提起をしていました。 https://www.kanaloco.jp/article/entry-378008.html  《 訴訟が結審した1月9日の口頭弁論が脳裏に刻まれている。和希君が幼稚園で共に学んだ日々を収めた映像が法廷で流された。運動会で母の悦子さんに車いすを押してもらいながら全力疾走する様子も映し出された。被告席にいた市教委職員は目をつぶり、映像を見ようとはしなかった。》  子どもたちが和希君と一緒に作り出した豊かな時間の、貴重な記録映像に目をつぶり、見ようとしなかった市教委職員。何を意地はって見ようとしなかったのでしょうね。こんな人たちに和希君の思いは潰されたのですが、果たしてそれだけだったのか、と記事は問います。 《 行政と司法だけが問われているわけではない。行政の判断は、障害に応じて学ぶ場を分けるのは当たり前という世論に支えられている側面があるからだ。 「通常学級で学ばせたいなんて親のわがまま」 「授業のペースが遅くなり、ほかの子たちにとっては迷惑な話」 「特別支援学校に行って、その子に合った教育を受けたほうがいい」 》  本当にそう思います。そうやって障がいのある子どもを排除することで、普通の子どもたちは本当に幸せになるのかどうか。きちんと考えていかないと、社会は痩せ細っていきます。いろんな子どもたちがいることの豊かさを経験せずに大きくなって、どんな社会を作っていくのだろうと思います。  昨年近くの小学校で人権に関する授業を頼まれ、ぷかぷかさんを何人か連れて行って、得意技を披露してもらいました。プロのチェリストと共演するほどの大ちゃんの太鼓演奏、ボルトさんのダンスにはみんな圧倒されていました。ツジさんと暗算を競う計算大会では、教員ですら勝負になりませんでした。30年前に習った「ふきのとう」の朗読もみんなびっくりしていました。自閉症と言われる人の実力にみなさん、ほんとうにびっくりしていました。  こういう経験を積むことこそ大事な気がします。大人にも経験して欲しいですね。   記事の最後がすごくよかったです。  和希君の就学訴訟の問題は  《一家の学校選択の話に矮小(わいしょう)化してはならない。私たちが暮らす地域社会の問題だ。  「この地域にあなたがいてほしい」  「あなたがいられる地域にしたい」 そう言えるつながりが地域に紡がれていけば…》  そう、社会は少しずつ変わって行くのです。そういうつながりをどうやって作っていくのか。そこがすごく大事です。「いい記事だったね」というだけでは、それはできません。  ぷかぷかは「障がいのある人たちとはいっしょに生きていった方がいいよ」と言い続け、そう思える関係を様々な形で作ってきました。お店、外販、パン教室、演劇ワークショップなど。  その結果、「ぷかぷかさんが好き!」「ぷかぷかさんにいて欲しい」という人たちがたくさんできました。   コロナで休み中、近所の80歳になる方が「会えないのは寂しいですよ、孫みたいにかわいい人たちですから」とおっしゃっていました。一人暮らしなので、道で会っても「こんにちは!」って挨拶してくれるぷかぷかさんは、ほんとうにうれしい、と。  休みが続いたことで、ぷかぷかさんたちを必要としている人たちがたくさんいることにあらためて気がつきました。  NHKが何度も取材に来て、そんな人たちの声をたくさん拾っていました。首都圏ネットワークでやまゆり園事件を受けて時々やっている「明日への一歩」というタイトルで流すそうです。日時がわかりましたらお知らせします。  ぷかぷかはぷかぷかさんがぷかぷかさんらしくいられるお店を作ってきました。彼らが彼ららしくいられるとき、お客さんもまた、ふっと自由になれます。ほっとするような雰囲気が生まれます。  いい記事だったね、で終わらせるのではなく、わたしたちひとりひとりが本気で「この地域にあなたがいてほしい」「あなたがいられる地域にしたい」と思い、実際に動き出したいものです。
  • どうすれば、やまゆり園が事件について自分で考えるようになるのか
    やまゆり園事件の検証委員会、先日の中間報告を持って終了するそうです。 mainichi.jp 《 記者が鳥井健二・利用者支援検証担当課長に「検証中止」の理由を尋ねると、しばらく沈黙した後、「……議会で答弁した以上のことは答えられません。調査は法人に任せている。今後は前向きな議論をしていく」と繰り返すばかり。》  と、記事にありましたが、「調査は法人に任せている。」って、どういうことなんだと思いました。  この法人、事件後一年たって再開されたホームページには 「昨年7月26日、津久井やまゆり園で起きました事件から一年になります。今まで多くの皆様にご迷惑やご心配をおかけしてきたところでございます。」  と、他人事のような挨拶があっただけで、事件に関する説明は一切ありませんでした。元従業員が犯した犯罪であったにもかかわらず、謝罪の言葉、どうして施設の職員が、施設の利用者を殺す、などという信じられないような犯罪が起きたのか、という検証も一切ありませんでした。  こんな法人であるにも関わらす、「調査は法人に任せている。」って、どういうことなんでしょう。何を根拠に「調査は法人に任せている。」のでしょうか。これほどまでに無責任な法人を県は信頼しているのでしょうか。  社会福祉法人はNPO法人に比べて、社会的な責任が大きいはずです。  「事件後、一切の謝罪、説明がなかったことについて、県は指導を入れた のでしょうか?」と以前、県に対して質問しました。  県からは「運営法人による謝罪や、説明責任の有無については、法人として判断すべきものであると考えています。」という回答が来ました。これが監督責任者のいうことか、と思いました。責任の放棄でしかありません。  「調査は法人に任せている。」という言葉も、そういう文脈の中での言葉なんだろうと思います。無責任極まりないです。  事件直後におこなわれた検証委員会の報告書には、やまゆり園でどのような支援がなされていたのか、という核心部分が一切ありませんでした。元現場の職員が犯した犯罪だったので、やまゆり園がどういう支援をやっていたのかは当然問題になるものだと思っていました。ところがその報告書にあったのは防犯上の問題ばかりで、事件現場がどうだったのか、という報告が全くありませんでした。  県としてはそこを出したくなかったんだと思いました。やまゆり園は県職員の天下り先として有名です。そういう関係があるから、やまゆり園は潰したくないのでしょう。そういう思いがありありでした。  ですから今回の検証委員会の終了、という記事も、ひどい!と思いつつ、県というのは、ま、そんなもんだろうと思いました。  犠牲になった人たちへの思いも、これからもそこを利用する人たちへの思いも、全くないのだと思います。  その一方で《ともに生きる神奈川憲章》なんて掲げたりして、恥ずかしくないのだろうかと思います。  県の批判をしたところで何も出てこないので、もうやめます。  問題は、自分で「何が問題だったのか」を考えようとしないやまゆり園をどうするかです。自分でそこを考えない限り、事件の温床は残ったままです。  どうすれば、やまゆり園が自分で考えるようになるのか。いいアイデアがあれば教えて下さい。
  • 上映会と演劇ワークショップ、残念ながら中止にします。
     7月25日(土)に予定していた「ぷかぷか上映会」と8月からスタートし、6ヶ月かけて芝居を作る第7期演劇ワークショップは、コロナの影響で残念ながら中止にします。  相模原障害者殺傷事件の裁判も終わり、事件のことが話題になることはほとんどありません。でも、あれだけの事件がありながら、やまゆり園も社会も何も変わっていません。だからこそ、いろんな機会に事件のことを話題にしないと、社会はますますだめになる気がしています。  一昨年、昨年に引き続き、今年もぷかぷかの映画を手がかりに事件のことを話題にする予定でした。堅い、重い話ではなく、時折笑い声が響いたりする楽しい上映会です。  昨年の上映会の雰囲気を現代書館の若い編集者がうまく表現してくれました。ぷかぷかがどうやって事件を超えようとしているかがよくわかります。  www.pukapuka.or.jp  今回は6月末に完成予定の第6期演劇ワークショップの記録映画『どんぐりと山猫 ぷかぷか版』と、重度障害の子どもと一緒にやまゆり園裁判を傍聴した土屋さんのドキュメンタリー映像(クローズアップ現代で放送されたものの短縮版)の2本を上映し、土屋さんを取材した若い記者とタカサキで、ぷかぷかさんといっしょに生きる意味を事件と絡ませながら語る予定でした。記者は最近ぷかぷかとのおつきあいが始まり、言葉ではうまく言い表せないものを感じたとおっしゃっていたので、新鮮な感覚で事件とぷかぷかを語ってくれると期待していました。  記者を通して土屋さんにもそうま君と一緒に参加していただければ、裁判傍聴の貴重な話も伺えるかなと思っていました。  300人の会場を100人にするとか、プログラムを短縮するとか(昨年が午前と午後の2部ありましたが、今年は午後のみ)いろいろ考えたのですが、コロナの影響で来られない人も多いと考え、結局上映会は中止することにしました。  ただ、せっかく作った映画がもったいないので、その日限定でYouTubeで映像を流す予定です。詳しくはまた後日お知らせします。  演劇ワークショップの記録映画は、ぷかぷかさんと地域の人たちが悪戦苦闘しながら6ヶ月かけて芝居を作った時の記録です。できあがった芝居は決して上出来とはいえなくて、昨年の作品の上映会では「シュールでわかりにくい」といった意見も出ました。  それでも私は見て欲しいと思うのです。  下手ですが、みんなで、精一杯、心を込めた描いたものです。  私は、ここに描いた空を、湖を、木々を愛していると、きっぱりと思っています。   あの6ヶ月、私たちがぷかぷかさん達とどのように生き、何を作り出したのか、を見て欲しいのです。  舞台での発表が終わった直後、参加した地域のおじさんが息を切らしながら「すごかった…ほんとうにすごかった…」と言葉少なに語る場面があります。ぷかぷかさん達とどんな出会いがあったのか、この途切れ途切れの言葉がすべてを語っています。  演劇ワークショップも中止  8月から始まる演劇ワークショップ、 ヨコハマアートサイトに出した助成金申請は今年も満額回答でした。 選考委員会の評価 《福祉施設による地域根ざした活動であることを評価します。実現性の高さ、時事性の捉え方が明確であることから、満額採択とします。感染症対策を十分に行うことを採択条件とします。》  今年は120万円の満額回答だったので、なんとしてもやりたかったのですが、コロナの影響で残念ながら中止にします。ソーシャルディスタンスを考えながらの演劇ワークショップなんてちょっと考えられません。  1年後、こういったことが堂々とできる状態になったら再開します。助成金は今年の満額回答120万円は、もったいないですが、そのまま返し、来年また改めて申請し直しです。助成期間5年を超えますので、審査が厳しくなると思います。チャレンジし甲斐があります。  演劇ワークショップは障がいのある人もない人も、みんなが表現活動を通して元気になれる場です。みんなで楽しみながら新しい作品を作ります。障がいのある人たちが一緒だからこそできる作品ができあがります。それは今までにない新しい文化と言っていいほどの作品です。  演劇ワークショップがいいのは、一緒にワークショップをやっている障がいのある人たちに対して、「あなたが必要」「あなたにいて欲しい」と素直に思える関係ができることです。何も言わなくても、そういった関係が自然にできるのです。  そういった関係で作品を作るので、できあがった作品は、「障がいのある人たちとはいっしょに生きていった方がいいね」って素直に思えるものになります。   相模原障害者殺傷事件は「障害者はいない方がいい」というメッセージを社会にばらまきました。悲しいことに、それに賛同する声がたくさんありました。それに対し、「それは違う」「障がいのある人たちとはいっしょに生きていった方がいい」「その方が社会が豊かになる」というメッセージを出し続けないと社会はほんとうにだめになっていくと思っています。  演劇ワークショップは、そういったメッセージを体をはって、楽しい雰囲気の中で表現します。ぷかぷかのまわりの社会が、確実に変わりつつあります。  ですから1年間休みにするというのは、いろんな意味でほんとうに残念です。でも、演劇ワークショップはぜったいに絶やさないようにするつもりです。  来年8月、コロナが収まっていたら、また楽しいワークショップ、一緒にはじめましょう。
  • この子と一緒にいれば迷わないのかなって
     重度障害障害者に税金を使うのはもったいない、とやまゆり園事件の植松死刑囚はいい、それに同感する社会があります。  重度障害者にお金を使うのはほんとうにもったいないことなのか。そこを考えていくことは、これからの社会のありようを考えることです。  もったいないかどうかを生産性という視点だけで考えると辛くなります。でも、生産性を離れ、違う視点でこの問題を見直していくと、新しい別の価値が見えてきます。  2月のクローズアップ現代で重度障害の子どもと一緒にやまゆり園裁判を傍聴した土屋さんが紹介されていましたが、その番組の短縮版にちょっと感動的な場面がありました。  重度障害のそうま君の誕生日。バースディケーキを前に「そうま、自分でふーしてみて ふー」とお父さんが言います。そうま君は自発呼吸は今後も無理だと医者からいわれています。でも、そうま君はお父さんの声を聞いて舌をそっと突き出し、ふーしようとします。兄弟たちの笑い声が重なって感動的な場面でした。           そうま君がいることで生まれた素敵なひとときです。それを幼い兄弟たちも含めて家族みんなで楽しんでいます。子どもたちの笑い声がすごくいいです。  そうま君がいることで生まれるこういう時間こそ大事にしたいと思うのです。こういう時間は家族を、そして社会を豊かにします。生産性では計れない価値です。  それがそうま君がいることの価値です。そうま君が何かを生み出すかどうかではなく、そうま君がいること、そのこと自体に価値がある、ということです。こういう価値を社会のなかでもっともっと共有できれば、重度障害の人に限らず、すべての人にとって生きることが楽になります。   重度障害の人たちにお金を使う、というのは、そうすることで生まれる豊かな時間を大事にするためです。生産性では計れない価値を大事にするためです。その価値は私たち自身の生きることを楽にし、社会を豊かにします。  生産性では計れない人間の価値を最初に教えてくれたのは、養護学校で出会った重度障害の子どもたちでした。あれができないこれができない子どもたちが、何かができるとかできないとかの価値観では計れない人間の価値を身をもって教えてくれたのです。そんな価値を知ったことが、今のぷかぷか設立につながっています。そしてぷかぷかが今、社会のなかで果たしている役割を考えると、彼らが教えてくれた価値の素晴らしさをあらためて思うのです。 www.facebook.com  下に添付したのは、重度障害のそうま君と一緒に裁判を傍聴した土屋さんを通して、事件の意味を探った素晴らしい記事です。  話を大きく広げることなく、そうま君とお父さんの関係を通して事件を見ていくところがいいなと思いました。事件がとても身近な問題として見えてきます。  何よりもお父さんが裁判の傍聴を通して気持ちが楽になった、というところがいいですね。   記事の最後に土屋さんの言葉がありました。「この子と一緒にいれば迷わないのかなって」。そういう思いに至ったところが裁判を傍聴していちばんの収穫だったように思いました。 「植松被告と日本社会と向き合いたいと思っていたんだけど、結果的にはずっと自分と向き合っていた裁判でした。人の役に立つとか、人に迷惑をかけないとか、社会に求められるような生き方に窮屈さと息苦しさを感じてきたんだけど、荘真は本当にあるがままに生きているので何だか子どもに頼っちゃって少し情けないけど、この子と一緒にいれば迷わないのかなって」 www3.nhk.or.jp
  • 人としての情
     在宅の重度障害者が窮地に、という記事を読んでも、外出を手伝いに行くわけにもいかず、コロナというのはなんともやっかいです。 mainichi.jp 記事の最後にこんな言葉がありました。 ●●● 「植松聖死刑囚は、重度障害の人は生きる価値がないと否定しているでしょう。その中で、親がこんなに大変だ、大変だというと、『ほらやっぱり』と思うような人がいるかもしれない」と洋子さん。  続けて「でもね、こんなに大変でも私たちが頑張っているのは、この子の命が何より大切だからなんです。信太郎の大切な命をなんとしても守りたいから、頑張れる。だから大変なのは事実ですけど、生きる価値がないなんて、そんなことは絶対にないということを言いたい。それだけは、伝えたいんです」。冷たい言葉があふれるコロナの時代に、この言葉を書き留めておきたい。 ●●●  記者の思いが溢れた言葉でした。  あらためて植松死刑囚はやまゆり園で重度障害の人たちとどういうつきあいをしていたのかと思いました。普通は毎日つきあっていれば、相手がどんなに重度障害を持っていようと人としての情が湧くものです。相手が笑えば、こちらもうれしくなったり、悲しい顔をしていれば、どうしたんだろうって心配になったりするものです。  それを  「生きる価値がない」 などと思ったのですから、やまゆり園の現場では「人としての情」を持っていなかったのだと思います。「人としての情」を持てないような雰囲気の現場だったのだと思います。  先日、神奈川新聞に「津久井やまゆり園」の支援実態を検証する第三者委員会の報告が載っていました。 ●●● 利用者の見守りが困難なことを理由に身体拘束をしていた事例もあった。身体拘束が漫然と行われていたと考えられるとし、「正当な理由なく身体拘束することは身体的虐待に該当し、重大な人権侵害であることを肝に銘じることが重要」と指摘した。 ●●●  重大な人権侵害である、と指摘されながら、かながわ共同会は 「必ずしもすべてが事実ではない。」 等と反論したようですが、事件との関連で行われたことの自覚が全くないですね。すべてが事実ではない、などといってる場合か、と思いました。事件を起こした現場の責任者としての自覚が全くないですね。  結局は法人のそういう体質のなかで事件は起こったのだとあらためて思います。  等と書いても、法人には届かないし、法人には自浄作用が全くないので、結局事件の温床は残されたままになるのだと思います。 神奈川新聞の記事 https://www.kanaloco.jp/article/entry-357593.html
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