ぷかぷか日記

仕事との向き合い方が…

 ムーさんは以前やっていた仕事は涙が出るくらいつらかった、といってましたが、私が養護学校の教員やっているときは、

「仕事というものはつらいものだ」

と教えていました。今から思うと恥ずかしい限りですが、当時は仕事に対してそういうイメージを持っていました。ですから

「いろいろつらいことがあっても、仕事なんだからがんばりなさい」

などと無責任なことを生徒にいっていました。ムーさんもそんな教師の言葉を聞いて、涙が出るくらいつらいときも、黙ってがんばっていたのかなぁ、なんて思うと、本当に申し訳なかったなと思います。

 教員をやっていた頃は、仕事についてのイメージが、やはり貧しかったのだと思います。あるいは現場で仕事に向き合う卒業生たちを、丁寧に思い浮かべなかったということでしょう。

 ぷかぷかを始めてから、毎日卒業生たちを間近に見ていると、彼らにつらい仕事をやってもらうことは、やっぱりできないと思うようになりました。仕事が楽しくないと、毎日がつまらないよな、と彼らの目線で考えられるようになりました。

 

 一番決定的だったのは前にも紹介したミーちゃんの

「今は、まっすぐ前を向いて生きています」

という言葉でした。仕事がミーちゃんにそんな言葉を口にさせたのでした。

 

「仕事はつらいもの」「つらくても仕事は我慢するもの」

などといっていた教員時代の私に比べ、仕事との向き合い方が、なんて豊かなんだろうと思います。

涙の出るくらいつらい仕事

 ムーさんの面談がありました。ムーさんは2年前、ほかの事業所から移ってきました。そこではマスクの検品などをする事業所で、たくさんの量をこなすので、その分、ぷかぷかの倍くらいの給料をもらっていたそうです。仕事環境は厳しく、仕事中のおしゃべりはもちろん、よそ見も禁止だったそうです。養護学校を卒業する頃は、就労を目指し、仕事に厳しいその事業所を選んだそうです。

 同じことを繰り返す仕事は、知的障害の方に向いているとよくいわれますが、ムーさんにとっては、単純作業の上に、おしゃべりも、よそ見も禁止という環境のなかで、涙の出るくらいつらい仕事だったそうです。よそ見をすると注意されたそうで、監視されるような雰囲気だったのかなぁと思いました。そのつらさを誰にもいえず、本当につらい日々だったようです。

 ムーさんはぷかぷかで実習をやった初日に

「あの〜、ここは仕事中におしゃべりしていいんですか?」

と、小声で私に聞いてきました。私は特に気にもしていなかったので

「ああ、どうぞ、お好きなように」

と答えました。以来ムーさんは楽しそうにおしゃべりしながらカフェの仕事をしているのですが、おしゃべりすることで仕事が止まったとか、効率が落ちたという話は聞きません。よそ見も目一杯やっていますが、それが問題になったことは一度もありません。

 ぷかぷかでは毎日帰りの会で

「今日はいい一日でしたか?」

と聞きます。ムーさんは時々

「自分の作ったスープが、お客さんにおいしいっていわれて、すごくうれしかったです。それがいい一日でした」

と、時々うれしそうに話します。

 給料は前にいたところに比べると半分くらいになったようですが、でも、仕事はすごく楽しい、っていいます。仕事は楽しいことが一番だと思います。涙の出るくらいつらい仕事は、かけがいのない一日を無駄につぶしてしまいます。せっかくの一日がもったいないです。

 「今日はいい一日だったね」ってお互い言い合えるような一日をみんなで作っていきたいと思っています。

 

 

 

昔がんになったときの話−8

 手術8日目。傷口の糸を抜糸しました。なんだかすっきりした気分。今日から流動食をとっていいといわれ、飛び上がりたいくらい嬉しい気持ちでした。手術以来、一滴の水も飲んでいなくて、点滴だけで生きていました。これだけで生きているんだから、点滴の中にはカロリーメイトのような濃縮された栄養が入っているに違いないと思っていました。で、ある日点滴の成分をみたのですが、塩化カリウムとか電解質とか、およそ情緒のないものばかりで、こんなもので自分は生きているのかと思うと、なんだかがっかりというか、変な気がしました。タカサキは塩化カリウムだったのかよ、って感じです。

 食事の前に看護婦からいろいろ注意がありました。1回の食事を2回に分け、それぞれ30分以上かけてゆっくりとよく噛んで食べること。間に1、2時間の休憩を取ること。重湯でもみそ汁でも、飲み込むのではなく、よく噛むこと。退院後も6ヶ月は食事療法を続けること。油物、繊維質、肉類はだめ。いい加減にしてると、腸閉塞を起こして救急車で病院に運び込むことになる等々、聞いているうちにだんだん気が滅入ってきました。

 それでもお昼が運ばれてくると、とたんにわくわくした気分になったあたりは体の正直なところ。重湯、スープ、カタクリ、ジュースがそれぞれコップに三分の一くらい入っていました。え?たったこれだけ?って感じでした。一週間の絶食分くらいは多めにくるのかと思っていました。でも、実際に食べる段になって、これくらいが精一杯ということが納得できました。

 スプーンにほんの少し重湯をすくい、こわごわ口に入れました。本当に「こわごわ」という感じでした。1週間、絶食しただけで、こんな風な気持ちになるのかとちょっとびっくりしました。

 懐かしいお米の味がしました。懐かしい、と思ってしまうくらいうれしい味でした。口に含んだまま、ゆっくりと噛みました。なかなかの味でした。重湯がこんなにもおいしいとは思ってもみませんでした。ゆっくり味わって噛んだ後、ゆっくりと飲み込みました。胃にじんわりしみて、突然グゥとかわいい音がしました。

「おお、お前、生きておったか!」

と、思わずおなかをさすってしまいました。ほんの一週間前、あんなにもバッサリ切られ、わずか三分の一の大きさになってしまったというのに、もうこうやって僕のために重湯を一生懸命消化しようとする小さな胃の「けなげな働き」にちょっと感動したのでした。

外販部長

 tuji-kun本人とお母さんと久しぶりにお話ししました。tuji-kunはぷかぷかにやって来た頃を思えば、目覚ましいばかりの成長があります。ぷかぷかの始まる前やっていたパン教室では、とにかくよくおしゃべりするので、それを生かして冗談半分で「外販部長」ですね、なんて言ってました。

 ぷかぷかが始まった頃は、慣れないこともあって、パニックになって大声出しながら外へ飛び出したり、いろんなトラブルがあって、いっしょにやっていけるかどうか心配するほどでした。ところがtuji-kunの特異なキャラ(暗算の計算がびっくりするほど早い、世界中の都市の名前をよく知っている、何年も前の紅白歌合戦に出た歌手を全部覚えている、クラシック音楽は最初の2小節くらいを聞いただけで曲名を言える、十数年前に読んだ国語の教科書に載っていたお話を正確に朗読できるなど)に、ファンが徐々に付き始めました。外販の日を楽しみするお客さんが売り上げを伸ばし、始めた当初、5,000円くらいだった売り上げが、最近は50,000円を超すこともあります。

 わずか4年足らずで売り上げを10倍伸ばしたいちばんの貢献者は、やはりなんといってもtuji-kunです。tuji-kunが風邪で休んだりすると、

「あれ、tuji-kunはどうしたの」

とみんな心配します。私なんかが休んでも、誰も気づきもしません。

 

 たまたま外販先で、訓練会の学習会をやっていて、その先生が、外販中ものべつしゃべりまくっているtuji-kunに

「仕事中はおしゃべりしてはいけません」

と叱ったことがあります。おしゃべりしても何も言わない私への牽制もあったと思います。

 まあ、普通はそうかもしれませんが、tuji-kunは仕事中、のべつおしゃべりすることで、売り上げをこんなに伸ばしました。彼が先生の指示に従って仕事中黙っていたら、売り上げが10倍伸びるなんて事はまずなかったと思います。

 となると

「仕事中はおしゃべりしてはいけません」

という指導は、絶対正しい訳ではありません。私も教員やっていた頃はそんなこといったことがありますので、今から思うと恥ずかしい限りです。

 世の中を知らなかったというか、のべつしゃべりまくることで成り立つビジネスもあるということを知らなかった、ということだと思います。

 

 ま、そんなことはともかく、tuji-kunは今や誰もが認める「外販部長」であり、毎日毎日外販の準備、外販に張り切りすぎるくらい張り切っています。こんな張り切りぶりは、ぷかぷかが始まった頃、誰も予想していませんでした。活気ある仕事がtuji-kunをこんなにも成長させたんだと思います。

 

あのときのひと言がぷかぷかを変えた

  今年度の振り返りと、来年度どんなふうにやっていくかで、今利用者のみなさんと面談を行っています。

 今日はみーちゃんと面談しました。みーちゃんは3年前、介護がどの程度必要か調査するケースワーカーさんの面談があった際、

 「ぷかぷかはどうですか?」

という質問に、

「以前はいつもうつむいていましたが、今はまっすぐ前を向いて生きています」

と、すばらしい言葉を、ぽろっと口にしました。

 その言葉がきっかけで、ぷかぷかでの仕事の意味が大きく変わったように思います。

 それまでは仕事はただの仕事でした。それがみーちゃんの言葉をきっかけに、ぷかぷかの仕事は利用者さんの人生を支えるものとして、とても大きな意味を持ち始めたのです。

 単なる就労支援の事業所ではなく、就労の前に、利用者さんの日々の人生を支えるような仕事を提供したいと思うようになりました。

 それは、毎日同じ事の繰り返しではなく、日々変化があり、仕事としておもしろいもの、仕事の結果が見えるもの、その結果によってモチベーションの上がるものです。

 「みんな笑顔で働いているところが気に入りました」と見学に来られた方がおっしゃったことがありますが、みんな仕事が楽しいのだと思います。

 みんなが笑顔で働くことにできる日々をこそ、大事にしたいと、みーちゃんの言葉以来思うようになったのです。

 「みーちゃんの、あのときの言葉が、ぷかぷかを変えたんだよ、ほんとうにありがとう」

 と感謝の言葉を伝えたのですが、みーちゃんは

「え?、え?」と戸惑っているようでした。

 

 

だいじょうぶ

 今日の天気を描いてもらったら、晴れのち雪、になっていたので、

「今日こんなにあたたかいのに雪が降るんですか」

「だいじょうぶ」

「朝、テレビの天気予報見たんですか?」

「見ました」

「雪がふるっていってましたか?」

「だいじょうぶ」

と自信を持って言ってましたので、そのままカフェの前に飾りました。

雪が降っても降らなくても、この天気予報の楽しさは変わりません。洗濯指数のシャツをびっしり描いてくれました。

 

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子どもの存在を否定的には見られないというか…

 先日、テレビで漫画家のヤマザキマリさんがアジアで活躍する女性を訪ねる番組がありました。その中でベトナムで農業支援をやっている女性を訪ねるところがあって、かつてベトナム戦争で枯れ葉剤が使われ、その影響で生まれた重い障害を負った女性が紹介されていました。とても辛い映像で、取材のあとヤマザキさんは涙を流しながら、ほんとうに怒っていました。私自身、もう辛くて、やりきれなくて、怒りながらちょっと涙が出てしまいました。

 枯れ葉剤の影響で障がいのある子どもがたくさん生まれました。でも、そういう子どもが生まれるから枯れ葉剤はだめだ、といういい方をするとき、じゃあ、生まれた子どもたちはどうなるのか、という問題が残ります。枯れ葉剤をまくのは犯罪的な行為だと思います。でも、その犯罪的な行為である理由として、障がいのある子どもが生まれる、という論理は、その生まれた子どもを見ていると、どこかすっきりしないものを感じるのです。子どもの存在を否定的には見られないというか…

 昔「世界は恐怖する」という反核の映画がありました。映画の中で広島の原爆によってこんな障害児が生まれた、と小頭症の子どもを隠し撮りした映像が流されるところがありました。その時私はその小頭症の子どもの映像に

「なに?この子、かいわいいじゃん」

なんて思ってしまったのです。重い映画の中で、その小頭症の子どもがちらっと笑う横顔が写っているシーンに、何か救われた気がしたことを今でも覚えています。その子どもを映画の主張のように否定的に見ることができなかったのです。

 テレビの映像も、ベトナム戦争の後遺症として紹介されながらも、お母さんが子どもの大きなおでこを、いとおしむように何度も何度もなでたり、農業支援をやっている女性が寝たきりの女性とおいしい食べ物の話をするシーンは、辛い映像の中で、ささやかな救いでした。

 私の中でまだまだ整理しきれない問題です。ご意見頂ければ幸いです。

 

 

 

 

プチギフト

 利用者さんのいとこの方から結婚式で使うプチギフトの依頼があり、ようやく完成しました。初めての商品ということもあって、クッキーもぎっしりという感じで入っていますが、そのあたりの調整もしながら、利用者さんの思いが、この小さな贈り物から伝わっていくような商品を作っていきたいと思っています。

 プチギフトの注文、受け付けます。値段は相談です。045-921-0506  

 

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