ぷかぷか日記

相模原障害者殺傷事件を超えるために

  • 「あ、今日もいい笑顔だね。」
    先日の虐待の記事が気になって、また書きます。 digital.asahi.com 「虐待通報すべし」とした5事案として次のようなものが揚げられていました。  ・服薬用の水などに塩や砂糖が入れられた(身体的虐待)  ・利用者の肛門(こうもん)にナットが入っていた(身体的虐待)  ・利用者に数百回のスクワットをさせた(身体的・心理的虐待)  ・職員の粗暴行為で、利用者が頭を打ち失神した(身体的虐待)  ・利用者の食事に多量のシロップをかけて食べさせた(身体的・経済的虐待)  いずれも気分が悪くなるような事案で、ふつう人間はこんなことはしません。こういうことはしないのが人間です。  介護の現場にいるのは人間のはずですが、虐待の実態を見る限り、そこには、もう人間を感じることができません。  厚生労働省が「障害者福祉施設等における障害者虐待の防止と対応の手引き(施設・事業所従事者向けマニュアル)」というのを出しています。人間が人間でなくなっている現場で、こんなマニュアルがどれだけ役に立つのだろうかと思います。現場の荒廃のレベルの認識が甘いのではないかと思います。虐待の現場になっている神奈川県でさえ、このマニュアルを県のホームページに揚げています。こんなことやって虐待がなくなると本気で思っているのでしょうか? https://www.pref.kanagawa.jp/documents/22574/saishin.pdf  重度障がいの人たちを相手にする現場がどうしてこんなにもすさんでしまったのか。そのことにきちんと向き合っていかない限り、虐待はいつまでたってもなくなりません。向き合ってないからこそ、あのやまゆり園事件以降も、一向に虐待がなくならないのだろうと思います。  事件の直後から「支援」という上から目線こそが事件を引き起こしたのではないかと私は言い続けています。虐待の事件を受けて、あらためて、相手を蔑むところから出発している「支援」という関係の問題性を思います。  相手を蔑むことは、蔑む側の人間の荒廃を産みます。こいつらには何やっても許される、みたいな… 「利用者の肛門(こうもん)にナットが入っていた」などという事例は、その際たるものです。人間のすることではありません。これはもう「虐待」といったレベルではなく「犯罪」です。どうして「犯罪」として追求しないのでしょうか?ここにも社会の大きな問題があるように思います。  福祉の現場で「人間を回復する」「人の心を取り戻す」、そのためにはどうすればいいのか。  いつも書いていることですが、障がいのある人達と「フラットにつきあう」「ふつうにつきあう」ことです。  東北の花巻に住んでいる大好きな青年達です。昨日お母さんのFacebookにこんな素敵な写真がアップされていました。見ただけでキュンと幸せな気持ちになってしまいます。  二人ともアンジェルマン症候群といって、重度障がいの青年達です。重度障がいなので、何もできないのかというと、そんなことはなくて、こんな素敵な顔をして、まわりの人たちを幸せな気持ちにさせてくれます。私には絶対にできないことです。彼らにしかできないことなのです。そのことを謙虚に認めることから、彼らとの新しい関係が生まれます。  こんな笑顔をする人は街の宝だと思います。社会の中で一番大切にしたい人たちです。  施設にはこんな笑顔をする人はたくさんいるはずです。そんな笑顔を見つけた時、 「あ、今日もいい笑顔だね。」 って笑顔で言える関係を作ること。それが虐待をなくす、一番大事なことだと思います。そして楽しいことがあった時は、一緒にこんな笑顔になる。楽しいことを彼らと共有するのです。  彼らと一緒に本心で笑えるようになった時、失った「人の心」が戻ってきます。重度障がいの人たちが、失った「人の心」を取り戻してくれるのです。
  • 虐待は、虐待をする人間をダメにします。そのことに障害者施設はどこまで気づいているのでしょう。
    今朝の朝日新聞朝刊、また県立の障害者施設で虐待。 digital.asahi.com 「服薬用の水などに塩や砂糖が入れられた」「利用者の肛門にナットが入っていた」「利用者に数百回のスクワットをさせた」等々、気分が悪くなるような内容。  こんなことは人がすることではないです。障がいのある人達を「支援」する障害者施設でどうしてこんなことが起きてしまうのか。  ふつう、人とおつきあいすれば、その人のいろんなことがわかります。やまゆり園事件で重傷を負った尾野一矢さんを介護している大坪さんは、一矢さんのそばにいると気持ちがくつろぐそうです。気持ちがくつろぐような関係って、素直にいいなぁ、と思うのです。     障害者施設では、どうしてこういうおつきあいが生まれないのでしょう。結局、「支援」という上から目線の関係が、相手とふつうにおつきあいすることを阻んでいるのではないかと思います。   重度障がいといわれる人たちも、よぉくつきあえば、いいものをたくさん持っています。  私自身は養護学校の教員になった時、最初に担任したのは重度障がいの子どもたちでした。彼らはしゃべれないとか着替えができないとかうんこの始末ができないとか、できないことがいっぱいありました。それでも彼らのそばにいると妙に心がくつろぐというか、あたたかい気持ちになって、なんだか惚れ込んでしまったのです。  月並みな言葉ですが「人間ていいな」って、彼らのそばにいて素直に思えました。そういう大切なものを彼らから教わりました。人間のよさというものを重度障がいの子どもたちに教えてもらったのです。  障害者施設は、そういったものを感じられる環境にないのだと思います。すごくもったいないというか、彼らと接する人達にとっては不幸なことです。相手と出会えないまま、ひどい虐待して平気な人間になってしまう。  虐待は、虐待をする人間をダメにします。そのことに障害者施設はどこまで気づいているのでしょう。   どうしたらいいのか。  「支援」という関係ではないところで彼らとおつきあいする機会を作ってはどうでしょうか。ぷかぷかでは「演劇ワークショップ」や「歌のワークショップ」をやっていますが、こういうところでは「支援」などという上から目線の関係はなんの役にも立ちません。何かを「表現する」ということにおいては、彼らにはかなわないからです。「素手」で彼らと向き合うと、自分はたいしたことないんだ、ということがよくわかります。そうやって私たちは人になることができます。 「人は人を浴びて人になる」 そう思える関係を障害者施設が本気で作るかどうか、そこのところが問われていると思います。
  • 違う人生があったのかな…
    相模原事件ブログを読んだ方から感想が寄せられました。その中にいい言葉があったので紹介します。 ぷかぷかに来ていたら植松死刑囚も、違う人生があったのかな...と思いました  素晴らしい気づきですね。  違う人生。その通りだと思います。  津久井やまゆり園とぷかぷかはそこまで違うのだとあらためて思います。毎日相手にしている障がいのある人たちと、人として出会い、人としてつきあっているのかどうか。それが、彼らと日々向き合っている人の人生にも影響するのだと思います。  あれができないこれができない人、支援の必要な人、というところだけでおつきあいするのはもったいないくらいのものを彼らは持っています。  毎日渋滞情報を聞きながら、それを絵に描く人がいます。  手の中にいろんなものを見つける人がいます。  こういう人と出会うと、世界がグンと広がります。人生が楽しくなります。  ぷかぷかに来ていたら植松死刑囚も、違う人生があったのかな...  ものすごく大事な気づきですね。
  • 彼らと出会う人が増えると、社会全体が豊かに
    3月8日(火)オンラインセミナーでぷかぷかの話をしますー第2弾        www.city.kawasaki.jp セミナー事前質問ーその2 ●やまゆり園事件について、どう思いますか? (世間は犯人の異常性や施設の防犯の不備などを理由にしていますが。)  ひとことで言うと、日々相手をしている障がいのある人たちと「人として出会ってなかった」ということだと思います。人として出会っていたら、あのような残虐なことはできません。  障がいのある人たちは「支援」するという関係が一般的ですが、その関係は相手と人として出会うことを阻害するのではないかと思っています。「支援」は相手に何かやってあげる、という上から目線の関係であり、フラットな関係ではありません。相手を自分よりも下に見るので、相手と人として出会い、たくさんのことを相手から学ぶ、ということができません。  私は養護学校の教員になった時、日々想定外のことをやってくれる障がいのある子どもたちに、どう対応していいのかわからず、もうほんとうにオロオロする日々でした。弱さむき出しで、裸で向き合った感じでした。でも、それ故に、相手と人として出会えた気がしています。オロオロしながらも、彼らのそばにいると、妙に心が和み、あたたかな気持ちになることに気がついたのです。  いろいろ大変だけど、なんだかいい人たちだなぁ、この人たちのそばにずっといたいな、としみじみ思うようになりました。月並みですが、彼らとおつきあいする日々の中で、「人間ていいな」ってしみじみ思えるようになったのです。そういう、人が生きていく上でとても大事なことを、彼らは教えてくれたのです。あれができないこれができないと馬鹿にされている彼らに教わった、というところが大事です。ここにこそ、彼らといっしょに生きる理由があります。    宮崎からやってきたこうちゃんは、そばにいるだけで気持ちが和みました。      これが、彼らと人として出会う、ということです。「支援」という関係が、そういう出会いをも生むのであれば、事件は起こらなかったと思います。  事件についてのブログで、「支援」という関係について何度も書きました。書いたブログは、ぷかぷかのサイトだけではなく、障害者支援団体のネットワークサイトにも投稿しました。ところが何度も投稿しているうちに、二つのサイトから閉め出されました。「支援」という関係について批判的に書いていたので、多分胸にチクチク刺さったのだと思います。その痛みをしっかり受け止めるのではなく、排除してしまったのです。  そういう意味で、事件はやまゆり園の問題にとどまらず、「支援」という関係に寄りかかっている福祉事業所全体の問題でもあると思っています。  彼らと人として出会うと、私たち自身が人として豊かになります。彼らと出会う人が増えると、社会全体が豊かになります。
  • 彼らといっしょに生きることが生み出す「希望」
    2月11日(金)に「ともに生きる」ってなんだろう、というテーマでセミナーをするのですが、参加予定の方から事前に質問がいくつか上がってきました。 その中の一つにこんな質問がありました。 《相模原事件後、障がいのある方、職員や関わる方々、社会はどのような変化がありましたか?これからどのような希望をお持ちですか。》    事件後、私自身は何かにつけ事件のことを話題にしますが、社会全体を見渡せば、事件直後はともかく、5年たった今、それほど変化があったとは思えません。結局はどんなに大事件であっても、やっぱりみんな忘れてしまうのだと思います。それが日々を生きる、ということだと思います。ですから社会に変化がないことを色々言っても、そこからは何も生まれない気がします。  事件の犠牲者は全員名前が伏せられていました。このことが余計に事件を忘れさせる原因でもあったように思います。でも、事件の裁判が始まり、犠牲になった美帆ちゃんの名前が明らかになりました。美帆ちゃんという名前の一人の女性の人生がそこにはあったということです。そのかけがえのない人生がそこで断たれたということです。そのことを忘れないようにしたいと思うのです。  名前は、その人の人生を語るいちばんの手がかりです。名前があることで、私たちは「ああ、あの人ね」と思い出すことができます。その名前がわからなければ、その人の人生を思い浮かべることはできません。その人の人生がなかったと同じになります。重い障がいのある人たちが、そのように扱われたこと、そのことを忘れないようにしたいと思うのです。  殺された19人にはそれぞれの名前から思い起こす人生があったはずです。そのことを美帆ちゃんの名前の公表は教えてくれました。 「美帆ちゃんのこと、忘れないよ」それは、事件を抽象的に語るのではなく、美帆ちゃんという一人の大切な命が奪われた事件として記憶し、語っていくということです。そこから何をすればいいのかを考えていく、ということです。www.nhk.or.jp  質問に「これからどのような希望をお持ちですか」という言葉があります。事件の犯人は「障害者はいない方がいい」といい、「よくやった」などと共感する人がたくさんいました。ぷかぷかは「それはまちがっている」と言葉で批判するするだけでなく、障がいのある人たちと「いい一日だったね」ってお互い言える日々を黙々と作り続けてきました。ぷかぷかの日々の活動そのものです。日々の活動そのものが事件への批判であり、異議申し立てでした。たくさんの人が共感してくれました。そのことが大きな希望だと思っています。  彼らといっしょに生きる日々は、ほんとうに楽しいです。楽しさは未来への希望を生み出します。  どんなに悲惨な事件であっても、彼らといっしょなら、それを乗り越えていけます。それが彼らといっしょに生きることが生み出す「希望」です。
  • 虐待を起こさないような関係を日々作っていく
    県立障害者施設で虐待事件があり、あまりにひどいので県に対し質問状を出しました。 www.pukapuka.or.jp   で、その返事。  どこまで本気でやるのか、といった感じです。いろいろ研修はやったようですが、こんなありきたりの研修で人は変わりません。研修に本気度が感じられないのです。  ぷかぷかがやった人権研修会はこんな感じです。 www.pukapuka.or.jp  月刊『創』に渡辺一史さんが事件について原稿を書いています。 www.tsukuru.co.jp binb.bricks.pub  いずれにしても県には期待できないので、自分で虐待を起こさないような関係を日々作っていくしかないのだと思います。  コロナでこの2年、休んでいた演劇ワークショップを来年は感染対策をしながら再開しようと思っています。障がいのある人たちとはいっしょに生きていった方がいいことが素直に伝わるような舞台を作ります。虐待を起こすような関係とは正反対の関係です。
  • 腹が立ってしょうがないので、神奈川県に質問状
     先日、虐待のあった「中井やまゆり園」の運営はかながわ共同会ではなく、神奈川県だそうです。「津久井やまゆり園」と「愛名やまゆり園」はかながわ共同会が運営しているそうです。ただ虐待の実態を見ると、かながわ共同会も神奈川県も体質的には同じだと思いました。  社会的な責任が大きい社会福祉法人が、事件について一切説明しない、犯人が元従業員だったにもかかわらず謝罪もしない、そういったことについて監督庁として指導すべきではないのかと指摘しましたが、すべて法人に任せている、となんの指導もしませんでした。  そんな無責任な神奈川県が運営している施設で虐待事件が発覚したのです。 nordot.app  記事には職員の暴力で入所者が骨折したにもかかわらず、それを管理職が隠蔽した疑いがあるそうで、これが「ともに生きる社会」を掲げる神奈川県がやることかと驚きました。「ともに生きる社会かながわ憲章」なんて、嘘っぱちじゃないかと思いました。  腹が立ってしょうがないので、神奈川県のホームページの「私の提案」を使って質問状を出しました。  神奈川県では津久井やまゆり園事件をきっかけに「ともに生きる社会かながわ憲章」を定め、ともに生きる社会を目指したはずです。にもかかわらず、県立の障害者施設でどうしてこのような虐待が起こったのでしょうか? ①職員が骨折するほどの暴力を入所者に振るうという信じがたい事件が、「友に生きる社会」を目指す神奈川県の施設でなぜ起こったのでしょうか?何が問題だと考えますか? ②それを隠蔽しようとしたのはなぜですか? ③職員にどのような人権研修をおこなっていますか。人権研修をやったにもかかわらず、どうしてこのような暴力事件が起こったのですか。研修の内容、研修のあり方に問題があったのではないですか。 ④管理職にどのような研修をおこなっていますか。事件を隠蔽するのはモラルの問題だと思いますが、管理職のモラルについてどのように考えていますか? ⑤暴力事件を起こした職員、隠蔽しようとした管理職は「ともに生きる社会かながわ憲章」を知っていたのですか。憲章についてどのような研修をおこないましたか? ⑥県としては今回の事件に対しどのような調査、検証をおこないましたか。その結果、どうだったのですか。 ⑦被害者および県民に対してどのような説明、謝罪をするのですか。 ⑧今後このような事件を起こさないために、県として、どのような防止策を考えていますか。 ⑨暴力事件を起こした職員、隠蔽しようとした管理職に対し、どのような研修をおこないますか、どのような処分を考えていますか。 ⑩暴力事件を起こしたり、それを隠蔽したりするのは、運営組織としてもう腐っているのではありませんか。今後どうしますか。  どういう回答が来るのかわかりませんが、回答が来次第お知らせします。  まともな回答が来るとは思えませんが、それでもおかしいと思うことはどんどん言っていかないと何も変わりません。
  • 福祉の現場で、相手と本当に人としてつきあっているのかどうか
    やまゆり園でまた虐待。 nordot.app  法人の体質が、事件後も全く変わっていないのだと思います。  事件からちょうど1年目に再開したやまゆり園のホームページには10行ほどのあいさつがあり、そのうち事件に関しては次の2行だけでした。  昨年7月26日、津久井やまゆり園で起きました事件から一年になります。今まで多くの皆様にご迷惑やご心配をおかけしてきたところでございます。  19人もの人が殺されたというのに、なにこれ、って思いました。  全く知らない人たちではありません。やまゆり園を利用していた人たちであり、まさに日々生活を共にしてきた人たちです。その人たちが亡くなったというのに、悲しみのかの字もありません。驚きましたね。人として一番大事な感覚を持ち合わせてないのではないかと思いました。  人が亡くなる、ということに対して語るべく言葉がない、語るべく気持ちがない。人の心を失っているのではないかと思います。  亡くなった人たちと人としておつきあいしていれば、語るべく言葉がない、あるいは気持ちがない、といったことはあり得ません。  法人のこの感覚にこそ事件の一番のおおもとがあるように思います。  人を人として見ない。人としてつきあわない。  社会福祉法人には、NPO法人よりもはるかに大きい社会的責任があります。あれだけの事件がなぜ起こったのかについて、現場の運営責任者として説明責任があるはずです。それにもかかわらず、わずか2行の他人事のような書きぶり。元従業員が犯した犯罪に対する雇用者としての謝罪も一切ありませんでした。  社会福祉法人に対する監督責任のある神奈川県に、 「こんなことが許されるのか」 と問い合わせました。ところが、この件に関してはすべて法人に任せています云々の、これまた無責任極まりない回答でした。  グルなんだと思いましたね。  事件の検証委員会による報告書は防犯上の問題ばかりで、一番肝心な犯人が支援の現場でどのように利用者さんたちに関わっていたのか、といった問題についての記述は一切ありませんでした。どう考えても不自然な報告書でした。  神奈川県とやまゆり園にとって 「不都合な真実」 があったのだと思います。  それを削除した。そしてその先に、事件の責任をすべて植松に負わせる動きがあったのではないか。  ふつうに考えたら、これは、ものすごく恐ろしいことです。しかも、そういったことが何ら問われることもなく、今も存続しているのです。  少し古い記事ですが、植松に関する新事実の書かれた大事な内容なので添付します。植松は福祉の現場で真面目に働く青年であったことの事実は、事件の見方を大きく揺さぶります。 maga9.jp  いずれにしても、人を人として見ない体質がずっと残っていて、今回明るみに出た虐待も、その延長線上にあるのだと思います。  で、私たちはどうするのか。これはやまゆり園だけの問題なのかどうか、ということです。  福祉の現場で、相手と本当に人としてつきあっているのかどうか。  そこが今あらためて問われている気がするのです。  
  • 障害克服に頑張らない人たちこそが、 ゆるい、居心地のいい社会を作っていく
    先日渡辺一史さんがパラリンピックに関して朝日新聞に寄稿していました。 digital.asahi.com  その中に、18年、東京都がJR東京駅構内に掲示したパラスポーツの応援ポスターに、パラスポーツの女性アスリートの言葉として、次のフレーズが大きく刷り込まれていたことが紹介されていました。  《障がいは言い訳にすぎない。負けたら、自分が弱いだけ》  どういうつもりで東京都がこんなポスターを貼りだしたのかわかりませんが、 アスリートにしか通用しないきつい言葉です。アスリートが考える「障がい」であり、アスリートが考える「勝ち負け」に過ぎません。  うちのぷかぷかさんたちにとっては 「え?何、これ」「どういう意味?」 って、感じです。でも、社会全体が障害のある人に対してこんな風に考え出したら、当事者にとっては、とても辛いなと思います。  渡辺さんは《「障害を克服し、頑張る人たちを応援すべきという押しつけがましさ」は、裏を返せば、「頑張らない人は応援しない」となる。》と書いていましたが、私の周りにいる人たちは「障害を克服しよう」とか「それにむけて頑張ろう」なんて気持ちがほとんどありません。  障害克服に向けて頑張らないから、彼らはありのままの自分を生きています。その人たちの周りはいつも自分らしく生きる、マイペースののんびりした時間が流れます。誰が来てもホッとした気持ちになれます。ぷかぷかのゆるっとした雰囲気、ホッとできる雰囲気は、彼らのそういう頑張らないところから来ています。  別に応援して欲しいなんて思いませんが、障害を克服しようと頑張らない人はダメだ、みたいな見方をしていると、障害はいつまでたっても克服すべくマイナスのイメージにとどまってしまいます。障害克服に頑張らない人たちが生み出す大事なものを見落としてしまいます。ぷかぷかは、障害を克服するのではなく、そのままのあなたが一番魅力的、といい続けています。ぷかぷかの魅力は、障害克服に頑張らない人たちの魅力です。  以前ぷかぷかのお店で大根を販売した時、大根に貼り付けた紙に《たいこん》と書いてあって、なんだか笑っちゃいました。障害克服に頑張らない人がサラッと書いた言葉です。この言葉が生み出した小さな物語です。 www.pukapuka.or.jp  障害克服に頑張らない人たちこそが、こんな風にして、 ゆるい、居心地のいい社会を作っていくのだと思います。私たちにはなかなかできないことです。そこをどこまで謙虚に見ていけるかだと思います。
  • かずやさんの自立生活を、福祉とは違う視点で語る
    2019年8月のぷかぷか上映会の時、こんな感想がありました。  《 4年前に霧ヶ丘に引っ越してきました。毎朝、ぷかぷかのパンを食べています。娘は保育園でもぷかぷかのパンを食べています。この街にぷかぷかのパン屋があることが、この街の価値を何倍にも上げています。映画を見て、それをますます感じました。霧ヶ丘の街が、ぷかぷかが、ますます好きになりました。》 「この街にぷかぷかのパン屋があることが、この街の価値を何倍にも上げています。」 ぷかぷかという福祉事業所が、福祉ではないところで新しい価値を生み出している。そこがいいなと思いました。  7月31日の上映会&トークセッションで、かずやさんの自立生活も、それが街の価値を何倍にも上げている、というような評価が出てくるといいですね、という話をしました。   数年前、緑区で障害のある人たちのグループホーム建設に反対する動きがあって、運営する業者からどうしたらいいか相談がありました。説明会に行って話をしようと、最初に『Secret of Pukapuka』の映画を上映しました。ところが始まって5分もたたないうちに 「障害者のいいところばかり撮った映画なんかやめて欲しい。もっと問題行動がわかるようなものをやるべき」 といった意見が出され、泣く泣く上映を途中で中止したことがあります。  その意見を出された方は障害のある方とおつきあいして何か困ったことがあった、というわけではなく、おつきあいのないが故に怖い、というところだけで意見を言っていました。要するに偏見です。たかが偏見ですが、こうやって上映ができなくなるようなチカラを発揮します。こちらの言い分を聞く耳も持ちませんでした。  社会は、障害のある人たちも含め、いろんな人がいることが社会の豊かさであり、面白さです。上映会の感想にあった「街の価値」というのは、まさにそのことを言っています。感想を書いた人は、パンを食べることでぷかぷかさんたちと出会い、そんなぷかぷかさんたちのいる霧が丘の街が好きになったというのです。  おつきあいすることもなく、一方的な偏見だけで障害のある人たちを排除してしまうと(グループホーム建設反対運動はまさにこれです)、社会が持っている豊かさや、いろんな人がいっしょに生きていく上での大事な苦労を失います。  「いろんな人がいっしょに生きていく上での大事な苦労」というのは、たとえばかずやさんの大声を巡って、今、まわりの人たちがどうしたらいいんだろうって、色々悩んでいますが、そういった苦労は、私たちの人間を鍛え、磨きます。それは社会の豊かさとして蓄積されていきます。苦労の蓄積は街の価値を少しずつあげていくのです。  先日NHKおはよう日本で紹介されましたが、地域で一矢さんを受け入れていこうという人たちも現れています。  いつも買い物に行くスーパーで「かずやしんぶん」を渡すと 隣の自転車屋さんのおじさんは  かずやさんの自立生活は、すでにこういう人を生み出し、周りの人は苦労を蓄積しています。かずやさんの自立生活は、こんな風にして街の価値を少しずつ上げているように思うのです。  かずやさんの自立生活を、福祉とは違う視点で語ること。それは今までにない新しい豊かさを生みます。
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