ぷかぷか日記

「ぷかぷかさんて障害者だったのね。ずっと忘れてたわ」

 今月末でやめていくスタッフがぼそっと言った。

 「ぷかぷかさんて障害者だったのね。ずっと忘れてたわ」

 この感覚がすごくいい。いっしょに生きていく、というのはまさにこの感覚だと思う。障がいのある人との対等な関係。あれができないこれができないと、障がいのある人たちを見下したりしない。

 相手と人としてつきあっているから、そこに「障害者」という言葉はもう必要ない。障害があるとかないとか関係なく、彼らとはおつきあいすればすごくおもしろい。

 つきあうとおもしろいからつきあう。おつきあいの原点とも言えるのだが、ぷかぷかさんとのおつきあいはそのことにつきる。だからおもしろいものが次々に生まれる。

 

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 おもしろいだけではない、彼らの作り出すものは私たちの心を癒やしてくれる。だから私たちにとってとても大切な人たち。すぐ上の絵は、ぷかぷかさんの描いたスタッフの似顔絵だが、スタッフは宝物のように大事に大事にしている。スタッフと利用者さんという関係を遙かに超えた豊かな関係。お互いが幸せを感じる関係がここにはある。

 「わらび餅」も文字も、お客さんの心をわしづかみにする。この文字は社会をゆるっとさせる。こんな文字を書く人は社会の宝だと思う。

 

 太陽住建さんがニューヨークで開かれたSDGsの世界大会のレポートの表紙にぷかぷかさんの絵を使ってくれたのも、持続可能な社会を作っていく上で彼らとの関係が大事だ、という思いがあったからだと思う。「先見の明」といっていい。

  太陽住建さんは太陽光発電を使って持続可能な社会を作ろうとしている。その工事現場に何度かぷかぷかさんがお手伝いに行き、おつきあいがはじまった。そういう関係の中で、持続可能な社会を作っていく上で、ぷかぷかさんたちの存在はとても大事だと思ってくれている。そんな思いがレポートの表紙の絵には込められている。

 何かと窮屈で、息苦しい社会。持続可能な社会にするためには、この問題の解決が必要。ぷかぷかがぷかぷかさんと一緒にほっと一息つけるような空間を作り出していることは、その解決策の一つを示している。持続可能な社会を作っていく上で、彼らとのおつきあいはとても大事だとあらためて思う。

 

 彼らのことを障害者としか見られない社会は、持続可能な社会を作っていくこういう新しい動きから、どんどん取り残されていく気がする。彼らとのつきあい方一つで、みんなが豊かになれる社会が実現するのに、もったいないことだと思う。

 

 ぼそっと語ったに過ぎないのだが

「ぷかぷかさんて障害者だったのね。ずっと忘れてたわ」

の言葉は、なんかすごく大事なことを語っている気がする。

 

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すごく悲しいけど、僕は泣かないよ!

 ぷかぷかのスタッフの一人が近々やめることになった。2年足らずのおつきあいだったが、そこから広がった豊かな世界は、障がいのある人たちといっしょに生きることで生まれる豊かさをそのまま物語っている。添付した感想を読んで欲しい。

 別れはいつでも辛いもの。それでもここには幸せがある。ぷかぷかは、そんな幸せを作り出しているのかも知れない、と感想を読みながら思った。

 ぷかぷかは就労支援の福祉事業所。でも、そんな枠組みを大きくはみ出すものをぷかぷかは作り出しているとあらためて思う。私たちの想定を遙かに超えたぷかぷかさんたちの働きだ。それが涙が出るくらい辛い別れを幸せなものにしている。これこそが彼らのチカラだと思う。そういうものを私たちは彼らからもっともっと謙虚に学ばねば、と思う。人生をもっと豊かなものにするために。

 

 「障害者は不幸しか生まない」などといったやまゆり園事件、そしてそれを生み出した福祉施設。それとは正反対の世界がここにはある。何が違うのか、そこを考えることが私たちに求められている。

 彼らを「支援」の対象としか見ないでいると、こんな豊かなものは生まれようがない。本当にもったいないと思う。

 

 

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 「ぷかぷかとの出会いとお別れまで」

 2年半ほど前、ダウン症の女の子と出会った。彼女と顔を合わせると、手を繋いでくれたり、たくさん話し掛けてくれて、すごく癒されたのを覚えている。

何を言っているかわからないこともあったけれど、話の内容云々ではなく、その自然なスキンシップと、あの笑顔がたまらなかった。

 当時4年生だった次男と、その女の子が初めて会ったとき、女の子はいつも私にしてくれるように次男にも手を繋ごうとしてくれた。だけど、初めて会った人からそんなことをされたことない次男は凍りついた。女の子がダウン症だったからではなくて、元々かなりの人見知りということもある。でも、次男は今まで障がいのある人たちと会ったことはなく、見掛けたことはあったとしても、関わってきたことのない。つまり、母親である自分が関わらせてあげていなかったということに気付いた。だからと言って、私自身もほとんど関わったことはないし、どのように関わったらよいのかもわからない。正直、知り合いにいなければずっと関わることもなく、知ろうともしなかったかもしれない。恐らく、小学生のほとんどが、次男と同じ状態なのではないかと思った。私は小学生のPTA会長をしている。そんなこともあり自分の子どもだけでなく、地域の子どもたちのことを考えることが多くあり、子どもたちが障がいがあるとか、ないに関わらず、あれこれ考えずに付き合えるような、そんな世の中だったらいいのにな、と思った。

「それにはまず、私が知らなければ!」そう思った。そう思ったとき、たまたま自分が知り合いのお店で開いたイベントに来てくれた人がぷかぷかのスタッフさんだった。もう1人はぷかぷかの大ファンの方で、ぷかぷかで働いてみたいことをそのお二人にお話した。そしてその時、そのお店にふらっとやってきたのが、最近ぷかぷかで働き始めたという方だった。偶然にも程があるだろ?と言いたくなるほどのぷかぷか要素が高い空気の中で、ぷかぷかのスタッフさんから高崎さんを紹介してもらった。

 

 高崎さんにメールを送り、責任者の方と会うことになった。見学をし、実習を3日間体験させてもらうことになった。

 初日の朝、緊張してぷかぷかに向かうと、コウキさんが最高の笑顔で手を降って出迎えてくれた。初対面なのに「おはよう」と、こんなに気持ちのよい挨拶をされたのは、生まれてはじめてだったかもしれない。コウキさんのお陰で緊張も解れ、面接のときに会ったテラちゃんに力強く手を握られ、タカノブさんに靴下の色を聞かれ、あっという間にぷかぷかさんのペースに巻き込まれて行った。3日間、工房での実習。最初はみんなも緊張していたけれど、「嵐で誰が好き?」とか、雑談をしながら段々と仲良くなっていった。毎朝タカノブさんに靴下の色を聞かれ、みんなに色々教えてもらいながら、お昼は毎日ボルトさんとナマケモノに給食を食べに行った。3日間はあっという間に過ぎ、実習最後の日にボルトさんが私の目の前でダンスをしてくれた。

「こんなことは初めてですよ。」スタッフさんが言ってくれた。

実習を終え、しばらくして2次面接があった。そして、正式にスタッフとして働かせてもらうことになる。2018年10月のこと。

 

 ほどなくして、次男と夫とパン教室に参加させてもらった。先生のお二人が漫才コンビのようにテンポよく進めて行ってくれて、ぷかぷかさんが踊ったり歌ったり、そんな中でパンを交代で捏ねたり、おしゃべりしたり。あれよあれよと言う間にパンができあがる。夫はたくさんのぷかぷかさんに囲まれて、ハヤチャンに人生相談をして励まされていた。次男もそんな空間が心地よかったよう。みんなでパンをいただいて、洗い物して、さようなら。それがうちの家族とぷかぷかさんの出会い。

 それからも土曜日のワークショップに参加したり、あっという間にぷかぷかのファンになっていった。パン教室直後に次男がこう言った。

「え?あの人たちは障がいがあるの?」

 次男にとってぷかぷかさんは、障がいがある人ではなく、個性的な面白いお兄さんお姉さんでしかなかったようだ。これだよ!これ!こんなかんじでいいんだ!私はそう思った。子どもたちが障がいがあるとか、ないとか関係なく付き合えるようになったらいいのに…の第一関門を突破したような、そんな気持ちになった。

 

 パン教室で一度会ったら、もうお友達。パン屋さんに買い物に行っても必ず覚えていてくれて子どもに声を掛けてくれるユミさん。まだ会ったのは2回目なのに「大きくなったね~」と。そんな雰囲気が面白くてたまらない。働いていても、ぷかぷかさんとの時間はなんとも心地がよかった。もちろん注意をしなくてはいけない場面もあったり、落ち込んでいるところを励ましたり、やる気がなくなったところをやる気になるようにお話したり、なかなか難しいところもあるのだけど、いい一日を過ごそうという高崎さんの言葉を思い出すと、楽しく終われるように、言い方を変えてみたり、色々工夫することができた。

 お菓子工房で13ヶ月お世話になり、そしてパン屋に異動した。

 

 パン屋からスタートしたというぷかぷか。私にパンの経験はなかったけれど、とても温かく楽しいスタッフさんばかりで、楽しく働くことができた。

 工房とはまた違うぷかぷかさんがパン屋では働いている。ぷかぷかさんたちは、一週間ずっと同じ部署の人もいるし、週3はパン屋で週2は畑だったり、シフトは個人に合わせて異なる。テレビなどでもお馴染みのツジさんは毎日パン屋さんにいる。朝、店頭の準備をツジさんと行う。外販の準備のためパンに貼るラベルを出すのがツジさんのお仕事のひとつ。1番の食パンから、500番台まであるラベルの番号を全て暗記している。ツジさんとのやりとりはとても楽しい。ツジさんは何度か同じことを言って、4回目くらいにその言葉を途中で止める。そしてその先を相手に言ってもらうのが楽しいようで2020年お正月休み明けの一発目はこれだった。「キングヌー…キングヌー…キングヌー…キング??」こんな調子。2人で一緒に「ヌー!!」と言った。なんだか通じ合えたような気がした瞬間だった。ツジさんは何とも思ってないかもしれないだろうけれど。

 

 次男の1年生のときの担任の先生がぷかぷかの近くに住んでいるそうで、よく学校の帰りに寄ってくれた。パン屋のレジに居ると、知り合いではなくても常連さんとは顔見知りになってくる。お客様との雑談もとても楽しくて、食パンの耳はどんな風に食べているか紹介しあったり、娘さんがぷかぷかのパンの耳で作ったピザトーストがないと機嫌が悪いというお母さんや、たくさんの人とお話をした。昔の知り合いにばったり出会ったり、パン屋のレジにいて本当によかったと感じる。

 あるとき、担任の先生が来た。1年生のときの担任の先生と一緒に。ふたりは学校の人権担当だという。パン屋の私がいる目の前の椅子に先生ふたりと高崎さんが座り、打ち合わせをしていた。なんとも不思議な光景だった。小学校の人権研修をやりたいと高崎さんには前々から言われていて、校長先生にも一度お話はしたことがあったが、ぷかぷかのスタッフでありPTA会長である立場上、あまり強く推すことができずにいた。そんな中、近所に住んでいる1年生のときの担任の先生が、人権研修をぷかぷかにお願いしようと決めてくれたそうだ。やっとたくさんの子どもたちにぷかぷかさんたちを知ってもらえる機会を持てた。高崎さんからもどんな風な人権研修にしたらよいだろうか?と聞かれ、難しい話ではなく、歌ったり踊ったり楽しいのがいいのではないか?とお話した。

 低学年と高学年に分かれ、2回講演する。低学年用にはまずボルトさんと大ちゃんの忍者ダンスから始まり、ツジさんの暗記しているふきのとうの朗読、大ちゃんの太鼓、ショウヘイさんのポケモンのお話。急に知らないぷかぷかさんが躍り出し、こどもたちが「ポカーン…」だったところに、先生たちが衣装を着て一緒に踊ってくれた。先生のそんな姿を見たことのない子どもたちは喜び、それはそれは盛り上がった。子どもたちは、一緒に踊りたい人いる?との声にどんどん前に出てきて踊った。

 高学年はツジさんのふきのとうから始まり、忍者ダンス。一緒に踊りたいなんて言うかな?と心配していたけれど、たくさんの子どもたちが前に出ていった。ちょうどニンニンジャーの世代だったようでみんな楽しく踊っていた。PTA会長としては、学校の子どもたちの反応も気になるところ。また、子どもの発表会を見るような目でボルトさんと大ちゃんのダンスを見ていた記憶がある。2回の講演も大盛況に終わった。

 その後、ぷかぷかさんの人権研修の感想というものが学校の廊下に貼り出されていた。

 「障がいがある人は1人では何も出来ない人だと思っていたけれど、全然違った!」とか

 「ふきのとうを暗記しているなんて、すごいと思った。」など、たくさんの子どもたちの感想が貼り出されていた。とてもポジティブなものばかりだった。そんな中、我が子の感想が面白かったと、担任の先生から聞いた。

 「ママが働いているから何回か会ってるけど、障がいがあるとかないとか特になんとも思わない。俺にとっては普通のこと。」こんなような感想だったよう。「一歩先を行ってますね!」と先生は言ってくれた。とにかく、全校の児童に短い時間だったけれど、ぷかぷかさんを感じてもらうことが出来てうれしかった。

 

 コロナウィルスの影響で、営業が自粛となり、ぷかぷかさんたちは自宅でお仕事をしていた期間、私も自粛となった。しばらくみんなに会えなくて、とても寂しかった。みんなのことが気になった。パン屋で働いているものの、パンは焼かない私。自粛期間にパンを焼けるようにして、パン屋でも力になれるようになりたい!と毎日パンを焼いた。オーブンも新しくし、シンプルなパンは焼けるようになった。お店で出してほしいパンを焼いて持っていき、みんなにOKをもらってお店に出してもらったりもした。ちなみにコロナ自粛中にパンのせいで増えた体重2キロは、まだ落ちていない。

 

 営業が再開した。いつも通りとはいかず、毎朝行っていた朝の会はなくなり、各部門に出勤することになった。それでもぷかぷかさんたちはいつもとなにも変わらない。ツジさんのおしゃべりが始まると、いつもの光景が返ってきた!と嬉しくなる。コンちゃんのコキンちゃんがさつまいもを食べておならをして泣いちゃう話、アマノさんの猫舌だから味噌汁はフーフーしないと飲めない話、いつも当たり前だったこと一つ一つが、楽しくて仕方ない。

 

 パン屋に異動してから、仕事終わりにボルトさんが訪ねてくるようになった。「文章、瞳さん専用」と書かれたA4のコピー用紙を半分に折って、ホチキスで留めたものに、文章を書いてくる。私はその文章を、ナレーターのように読む。その文章は、ボルトさんらしくて面白い。

 「俺は◯◯だ!」から始まる文章は、プリキュアだったり、仮面ライダーだったり、そのページによって違う。仮面ライダーが堀北真希主演のヒガンバナというドラマに出てくる捜査七課に所属していて、地球を守るために修行をしていたり、時にはスーパーサイヤ人になっていたり、毎回ワクワクする文章を、週に3回持ってくる。ボルトさんは、仕事が終わってたくさんのぷかぷかさんがパン屋でお買い物をしている中、ずっと私の手が空くまで、パン屋で待っている。そして、完全にお客さんが引くと「文章、瞳さん専用」を持って近くにやってくる。誰にも迷惑をかけないように、ずっと待っている。そして私がナレーターのように文章を読み終えると、満足そうに帰っていく。

 「続きはまた水曜日ね!」こんなやりとりをして見送る。他のぷかぷかさんも、仕事が終わってから他の部門で働いていた仲の良い人を待って、一緒に帰ったり、まるで学校の放課後のような時間を過ごしてから帰っているようだ。

 

 ぷかぷかで働いている間に、私には色々なことが起きた。交通事故を起こし、みんなと日帰り旅行に行けなかったこと、瞼の手術をしたこと、ぷかぷかの目の前で雨の中転んで、ぷかぷかの隣の整骨院に通ったこと。交通事故のことを誰かに話すと、あっという間にみんなが知っている。会う人会う人「中村さん大丈夫なの?」と心配してくれる。何ヵ月も経った後に「もう目は良くなったの?」「もう転んだのは治ったの?」私がすっかり忘れていても、ぷかぷかさんは覚えていて心配してくれる。特にコウくんが、いつも優しく声を掛けてくれ、私を癒してくれる。

 

 週に3日の月水金。楽しいぷかぷかさんと、温かいスタッフさん達がいるパン屋でのお仕事は、本当に楽しくて、このままずっとこうしてぷかぷかのスタッフとしてお仕事をしていくものだと思っていた。そんな中、別のところで社員として働くことが急遽決まった。自分の将来的なことを考えてのことなのだが、あまりに急な展開でなかなか踏ん切りが付かなかった。

 一緒に働く大好きなパン屋の責任者に伝える日、心が痛くてたまらなかった。しかも、数日後にコンちゃんが辞めるというのが決まっていて、そのコンちゃんへの色紙を作る係りをさせてもらって、人が辞めると言うことがこんなにも切ないのに、自分が辞めるなんて言い出すことが本当に申し訳なく思った。7月31日、8月末で退職するために、この日に言うしかなく、大好きなパン屋の責任者のMさんに、重い口を開いた。Mさんはすごく困って、すごく嫌がってくれた。そこに隣の部門の責任者Iさんが現れ、一緒にお話をすると、Iさんもダメだと言ってくれた。考え直せないのか?と何度も言ってくれた。楽しくお仕事をさせてもらってるだけで、大した手助けも出来ていない私に、そういうことを言ってくれる人がいることがとてもありがたかった。明るくて面白くて、このお二人には人と付き合っていく上で、どうやったら相手が嫌な気持ちにならずに済むか、言いづらいことを言うときの言い方などを学ばせてもらった。ぷかぷかでは、楽しいぷかぷかさんとの出会いだけではなく、こうして素敵な方々との出会いがたくさんあった。プライスレスな22ヶ月だった。スタッフさんたちとは、連絡したら外で会うこともできるけど、ぷかぷかさんたちとはそうもいかない。たったの22ヶ月だったけれど、一緒に過ごしたことの思い出がありすぎて、なかなか心の準備ができない。ぷかぷかを辞めるということは、本当に身を切る思いである。

 

 いくつもの会社を退社してきた。いままでのその経験の中で、こんな気持ちになったことはない。また会えばいいし、辞めてもSNSで連絡を取るのは簡単なこと。こんな風に悲しくて泣けてくる別れを経験するなんて、思ってもみなかった。

 8/21、8月末で退社するスタッフの発表があった。ぷかぷかさんは仕事が終わると次々にパン屋にやってきて、声を掛けてくれた。「なんで辞めるの?」「辞めないで!」「中村が居なくなると嫌だよ」「今度はなんの仕事なの?」こんなにも声を掛けにきてくれる。私が辞めることを惜しんでくれる。本当にうれしかった。

 いつもならもう来ているはずのボルトさんがなかなか来ない。やっぱり辞めると聞いて、落ち込んじゃったのかな?悲しんでいるかな?心配していると、少し肩を落としながらも微笑みながらやってきた。そして、お手紙とプレゼントをくれた。手紙を書いていたから遅くなってしまったらしい。手紙にはこんなことが書いてあった。

 「いつもいつもいつもいつも僕のわがままを聞いてくれてありがとう。」と。他にも色々書いてあったけれど、それは私とボルトさんだけの秘密にしておく。読んだら涙が溢れてきた。ボルトさんの肩を借りて泣いた。ボルトさんとは、最初からたくさんの時間を過ごしてきたから、一番気がかりな人だった。この先「文章」を読んでくれる人は見つかるのだろうか?と思っていた。今まで何度も泣いているボルトさんを励ましてきた。泣くとすぐに鼻水が出てしまうボルトさんにティッシュを渡して鼻をかむように言ってきた。だけど私が彼の肩を借りてないて、顔を上げたそのとき、ボルトさんは泣いてなかった。

 「すごく悲しいけど、僕は泣かないよ!」と微笑んでいた。

 

 ぷかぷかで働けるのはあと4日。その4日間を大切に過ごしていきたい。

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自分を生きることを忘れる

 久しぶりに養護学校の先生と話をする機会がありました。

 ぷかぷかは社会に合わせるのではなく、そのままの彼らが一番魅力的、といっています。その流れで、学校というところは生徒を社会に会わせるためにいろいろやっているよね、といった話をしたのですが、その言葉がずいぶん響いたようでした。

 どうしても「将来のためにこんな力が必要だ」と考えて指導をしてしまうようです。

 会社に就職するためには、やっぱり社会に合わせるようにしないと、うまくやっていけません。だからそういう方向で指導せざるを得ないのはわかります。でもその指導が、生徒たちにとっては自分を押し殺す辛いものになっていることは想像して欲しいと思います。そしてこういうことが日常化すると、生徒たちは自分を表現することを忘れてしまいます。自分を生きることを忘れる、といってもいいでしょう。

 自分を生きることを忘れる。これは大変なことです。

 お客さんたちがぷかぷかに来て、ほっとする、というのは、ぷかぷかさんたちがありのままの自分を生きている姿を見て、自分自身がこのなにかと息苦しい社会の中で、自分を生きることを忘れていたことに気づくからではないでしょうか?

 

 昨年暮れ、共進印刷の「ありがとうナイト」で、ぷかぷかさんたちによる似顔絵コーナーをやりました。似顔絵を描いてもらいながら、その場の居心地がよかった、といって下さるお客さんがいました。その方が「ぷかぷかな物語」を読んで感想を送ってくれました。

 

《 私はどうしてぷかぷかさんたちといる雰囲気に居心地の良さを感じるのか、分かった気がしました。それはぷかぷかさんたちが、社会(規範)に合わせることなく自分らしく振舞って(働いて)いるところに、素直に明るさや楽しい気持ちをもらっていたんだと思います。
 それを『ぷかぷかな物語』を読んで気づきました。 効率性が重んじられることに息苦しさを感じる中、ぷかぷかさんのいる空間はそれを払しょくして安らぎを与えてくれる場でした。》

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 こんな風に気づく人を、私たちは「社会との接点」で、もっともっと作っていく必要があると思います。気の遠くなるような作業のように見えますが、少なくともぷかぷかのまわりはずいぶん変わってきました。お店も、外販も、様々なイベントも、すべて社会との接点です。そこの社会がぐんぐん変わってきています。これは大きな希望といってもいいと思います。
 彼らがありのままの彼らを生きることは、そのまま、彼らのまわりの社会を救うことになると思うのです。
 
 学校でどのようにやっていくのか、とても難しい問題ですが、ありのままの彼らの魅力をもっともっと社会に向けて発信して欲しいと思います。彼らの社会的な生きにくさに、あるいは社会そのものにどう向き合うのか、ということにつながることだと思います。
 

苦労して今までにない新しい企画を立てて欲しい

 三ツ境養護学校の先生から30周年の時のことをいろいろ聞かせて欲しい、と連絡があった。近々50周年をやるらしい。

 三ツ境養護学校創立30周年記念式典とかいっても、養護学校の子どもたちにとっては、どうしてそれがおめでたいのかよくわからない。で、考えたのが「三ツ境ようこさんの30歳の誕生パーティをやろう」という企画だ。これなら子どもたちにもイメージしやすい。

 さっそく「三ツ境ようこさん」の絵をみんなに描いてもらい、廊下に張り出した。廊下がようこさんの熱気で、むせかえるようだった。

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  主人公の「三ツ境ようこさん」はオーディションで決めた。クラスで一人出してもらい、みんなで衣装やメークを考える。審査員は全校生。お下げ髪で登場した小学部1年生の男の子が「かわいい!」といって選ばれた。このあたりから学校全体がぐんぐん盛り上がる。

 この年のテーマが 投票で「イケイケ30周年」が選ばれたので、中庭にみんなで池を掘ったりした。肢体不自由の子どもたちも、シートを敷いて腹ばいになって土を掘った。ゴムのシートを敷き、水を入れたらすぐにトンボがやってきて、卵を産んでいた。ポンプをつけて水を循環させ、蛍の幼虫を放した。これが30周年記念モニュメント。

 30年前の給食はどんなだったんだろう、とその模型を展示してもらったが、模型じゃつまらないと、栄養士さんに頼んで実際に作ってもらったこともある。30年前の給食を味わうなんて、なかなかできないことだ。

 30年前、学校のまわりはどんな風景だったんだろうと、地元の長老に話を聞いた。区役所に行って30年前の航空写真を探したこともあった。

 着任したばかりの教頭には30年前の歌を子どもたちの前で歌ってもらった。50過ぎのおっさんが詰め襟の学生服を着て「高校三年生」を歌ったもんだから、これは子どもにも大人にも受けた。

 三ツ境ようこさんの誕生パーティの日には神奈川県教育委員会から課長が挨拶に来るのだが、堅い挨拶してもらってもつまらないので、ようこさんのお父さん役になってもらい「かながわのケンです。いつもようこがお世話になってます」という挨拶をしてもらった。ちゃんとそれらしい衣装を着てきたところがえらい。

 校長は女性だったので、ようこさんの乳母ということで、割烹着を着てもらい、ホウキを片手に登場。なかなかよく似合った。

 

 ま、そんなこんなで、みんなで30周年を目一杯楽しんだ。

 50周年なら、三ツ境ようこさん50歳の誕生パーティにすればいいのだが、やはりここは現役の先生たちに苦労して今までにない新しい企画を立てて欲しい。苦労して企画を立ててこそ、50周年の意味がある。何よりも苦労は自分を磨く。

 

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「宇宙人がやってきて、その宇宙船に乗ろうと思って足を踏み出したら…」

グループホームの2階から落ちてけがをした人がいて、どうしたんだ、と聞いた時の答えがいい。

「宇宙人がやってきて、その宇宙船に乗ろうと思って足を踏み出したら…」

落っこちたという。

 「何バカなのこといってんの」

と一笑に付されるのが落ちだが、

「そうか、宇宙船に乗り損なったか、そりゃぁ残念だったね」

とみんなでその話を面白がるのが北海道浦河の「べてる流」。確かこの話は、ある年のべてるの家「妄想、幻想、幻聴大会」でグランプリを取った。

 私もこんな話は大好きだ。こんな話こそ、世界を豊かにすると思う。ぷかぷかさんたちといっしょに生きていこうと思ったのは、そういう話がいっぱい出てくるからだ。

 

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 これは多分何かと戦っている。時々

「お姫様がさらわれた、助けに行く」

とか言って、本当にどこかへ行ってしまう。あとで探し出すのが大変だが、それでも見つけた時は、頭ごなしに叱ったりするのではなく

「あれ?お姫様はどうしたの?」

と、聞いたりする。 

 

 精神障害の人たちの幻覚とは少し違う世界だが、こういう世界とは仲良くした方が、人生、楽しい。頭ごなしに否定するところからは何も生まれない。

 この本は「べてるの家」を牽引してきた川村先生が日赤を辞め、浦河の街の中に小さな診療所を開き、そこでの日々を語ったもの。

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 川村先生も、どこかで彼らと出会い、彼らの生きる世界の豊かさに気がついたのだと思う。そしてその豊かな世界を彼らといっしょに生きようとしている。

事件に対し、どうして本気で怒らないのか。

やまゆり園事件について考える講演会&シンポジウムの講師をされた方が、

「やまゆり園事件を受けて支援の現場が問われていることについて、支援職の当事者意識がやはり低い気がした」

とFacebookに書いていて、ちょっとがっかりしました。

 「どうしてなんでしょう」という私の問いに

「「支援する、される」という一方的な関係が固定化することの危うさについて、あまり考えていないのかもしれません。「自分たちは、良いことをやっている」。自らを疑う機会が少ないのかもしれません。」

と書いていました。ま、それもあるかも知れませんが、そういう理屈っぽい話の前に、もっと単純に、事件に対して本気で怒ってないんじゃないか、と私は思います。

 事件に対して本気で怒っていない。

 それがあるから自分にとってあの事件はなんだったのかを本気で考えられないのではないか。どうして本気で怒らないのか。

 

 私自身は

 「障害者はいない方がいい」

と自分勝手なこといって19名もの人を殺してしまった事件は、もう信じがたいというか、黙ってられない気がしました。

 それは私自身が日々障がいのある人たちに関わり、彼らといっしょにこの時代を、この社会を生きているからです。日々、一緒に笑い、いっしょにいい一日を作る仲間です。彼らは社会を耕し、社会を豊かにする人たちです。それは彼らとのフラットなおつきあいの中で見えてきたことです。

 だから「障害者はいない方がいい」という言葉に猛烈に腹が立ったし、それを理由に障がいのある人たちを殺してしまうなんて本当に許せないと思いました。

 悲しくて、悔しくて、腹が立って、事件について、もう書いて書いて書きまくりました。書いても書いても怒りが収まらない感じでした。怒りはエネルギーを生みます。そのエネルギーが事件に関して156本ものブログを書かせたと思っています。156本も書くなんて、やっぱり怒りが半端じゃなかったと思います。 

 

 支援の現場の人間が、自分にストレートにつながる事件だったにもかかわらず、どうして本気で怒らないのか。

 多分、日々関わっている障がいのある人たちとの関係が薄いのではないか思います。支援する、という関係はあっても、相手と人として出会い、人としておつきあいする、という関係がないのではないか。だから怒りも湧いてこないし、事件を自分事としても考えられない。

 障がいのある人と人としてつきあっていたら、事件は辛くて辛くて、他人事にはなりません。相手と人として出会う、というのはそういうことです。彼らと出会うと事件が辛くなるのです。

 2016年10月の秋のマルシェで事件のことにふれながら辛くて辛くて私はみんなの前で泣いてしまいました。

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 障がいのある人たちと人として出会うことで、私たちもまた人になれます。だから事件が辛くなるのです。

 息苦しい現代社会の中で失っていた人を取り戻すのです。ぷかぷかに来るとほっとする、という人が多いのは、そのせいです。

 

 事件は、やまゆり園の現場の、障がいのある人たちとの関係の薄さの中で起こったのではないかと私は思っています。相手ときちんと人間的な関係が結ばれていれば、人として出会っていれば、相手を殺す、などといったことはあり得ないからです。

 植松は、あの時、自分の中に人を見失っていた。人を見失うような環境だった。だから相手を殺すところまでいってしまった。いろんな思いがあっても、人である感覚は、一線を越えさせません。

 

 支援の現場で必要なのは、この人としての感覚を取り戻すことだと思います。そのためには相手と人として出会うこと。そこからもういっぺん事件を見直してみる。あの事件は私たちにとってなんだったのか。

 「障害者は不幸しか生まない」という言葉は、やまゆり園での障がいのある人たちとの関係の貧しさを語っています。不幸しか生まないのは、障がいのある人自身の問題ではなく、そこでの関係性の問題であることにどこまで私たちが気づいているのか、ということ。そこが今問われていると思います。

 

 こんな舞台を見て、「障害者は不幸しか生まない」とは誰も思いません。彼らとどういう関係を築くのか、そこで何を作り出すのか、ということこそ大事な気がします。

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勝ちに行く

 先日もお知らせしましたが、ヤマト福祉財団が小倉昌男賞を募集していたので、それを取りに行くことにしました。「勝ちに行く」のです。福祉事業所が「勝ちに行く」というのも変な話ですが、それくらいの勢いがないと、いい福祉なんかできないと思っています。「勝ちに行く」という勢い、緊張感が、素晴らしい推薦文、実績を書かせたと思っています。ぷかぷかがやっていることを、どうやったら相手に伝えることができるのか、それを考えることは事業を振り返ることでもありました。いい経験をしたと思っています。

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 保護者の方は推薦理由にこんなことを書いてくれました。

 

推薦理由

出会い

私と高崎さんとの出会いを作ってくれたのは息子です。自閉症の息子はパン屋で働きたいと希望し、たまたま養護学校の教諭をされていた高崎さんが退職金をはたいてパン屋を立ち上げる、という情報を得ました。「一緒にやりましょう」という高崎さんの熱気にあれよあれよと巻き込まれ、「ぷかぷか」で息子は働き始めることになりました。

見当違いの努力

小さい頃から私は息子を人に迷惑をかけないように育てなければいけないとばかり考えていました。息子はともかくおしゃべりが多く、これを直せないと社会で生きていけない、とまで考えるようになりました。そんな息子が自分からパン屋で働きたいと言い出したのです。自閉症の人は一般的に対人関係が苦手と言われています。しかも息子は手先があまり器用ではなく、パン作りもできるとは思えませんでした。そんな固定観念を打ち破ってくれたのが高崎さんです。何と息子をパン屋の営業部長としての役割を与えてくれたのです。直すように努力をしていたお喋りも、「別にいいですよ」と言われ、今ではそのお喋りが「売り」の一つになっています。彼のお喋りがパン屋の売り上げを牽引し、彼にはファンまでいるのです。障害者は社会に合わせていかなければならないのではなく、「そのままの彼らがいちばん魅力的」といい、その魅力を「売り」にしてぷかぷかは商売をしています。誰でも自分らしく生き生きとできる場がぷかぷか。これは、障がいのある人たちといっしょに生きていく、というフラットな関係だからできることです。もし高崎さんが「障害者を支援する」という上から目線の関係の中で活動していたなら、決してできないことです。ぷかぷかさんたち(利用者さんのことをこう呼びます)が楽しく笑顔で働くことで地域に笑顔の連鎖が生まれ、地域を元気にしているのです。

地域の人と芝居作り

活動の一環としてぷかぷかさん、スタッフ、地域の人たちを巻き込んで演劇ワークショップをやっています。舞台は演出家が作るのではなく、みんなであーだこーだ言いながら作ります。その過程でぷかぷかさんたちの発想の豊かさ、存在の豊かさが際立ち、自然に「あなたが必要」と思えてきます。障がいのある人に対してそう思えるの場は貴重です。舞台の様子は記録映画になり、全国で上映会を開いています。そのほか、地域の人が参加するパン教室、アートワークショップ、大学や区役所でのワークショップを積極的に行っています。人権研修会では当事者も加わり、人権についてリアルな気づきを生み出します。

一緒に生きていこう

高崎さんの活動は「ぷかぷかさんが好き!一緒に生きていった方がトク!」という思いが根底にあります。高崎さんの情熱、パワー、実行力を目の当たりにしてきた者として、高崎さんこそ小倉昌男賞にふさわしいと思い、推薦します。

 

 

 これにぷかぷか代表の略歴、実績を書き加えました。メールでの提出もあるので、リンクを張っておきました。

 

高崎明略歴

1949年4月30日生まれ

1973年4月〜1981年3月 民間会社勤務

1981年4月〜2010年3月 県立養護学校教員を務める。演劇ワークショップの手法を取り入れ、学校でたくさんの芝居を作った。三ツ境養護学校では全校生といっしょに1年かけて芝居を作り、文化祭で発表する授業を10年続けた。瀬谷養護学校では養護学校の生徒と地域の人たちで芝居作りを10年続けた。担当した学年では生徒たちと一緒に芝居を作り、文化祭の舞台で発表する授業を25年続けた。

2010年4月 就労支援B型事業所ぷかぷか設立〜現在に至る

 

実績 

・就労支援B型事業所ぷかぷか設立後、試行錯誤しながら、障がいのある人たちにまつわる新しい価値を生み出し、ホームページに発表し続けている。https://www.pukapuka.or.jp

・ぷかぷかは創業者の高崎が養護学校教員時代に障がいのある子どもたちに惚れ込み、彼らといっしょに生きていきたいと思って始めた。だから、ぷかぷかは障がいのある人たちと「支援」という上から目線の関係ではなく、「いっしょに生きていく」という「フラットな関係」で事業を展開している。

・そこで見えてきたものは、彼らとの関係ひとつで、彼らは「あれができないこれができない」といったマイナス価値の人たちではなく、「社会を耕し、社会を豊かにする存在」であること。

・彼らに惚れ込んで作ったお店なので、社会に合わせた彼らではなく、そのままの彼らで働いてもらっている。社会に合わせて自分を押し殺すのではなく、ありのままの自分で働く。その結果、ほっこりあたたかな、ほっと一息つける雰囲気のお店になった。ありのままの彼らにはそういった雰囲気を作るチカラがある。それが彼らの魅力。

・ありのままの彼らの魅力に気がついた人たちが「ぷかぷかさんが好き!」とファンになり、売り上げを生み出している。おしゃべりの止まらない方も、そのままで働いてもらい、そのおしゃべりの魅力に気づいた人たちがファンになり、外販の半分くらいは彼のおしゃべりが生み出している。

・ファンができたことは、障害者を排除することの多い社会にあって、ぷかぷかのまわりの社会が変わってきたことを示している。彼らとはいっしょに生きていった方がいいと思う人が増え、社会の幅が広がり、豊かになってきたと考える。まさに、社会を耕し、社会を豊かにする存在。

・そんな彼らといっしょに生きていく中で、ぷかぷかは社会を豊かにするものをたくさん創り出してきた。https://www.pukapuka.or.jp/2020/08/05/5615/

・アート商品はぷかぷかさんたちの生み出した作品とそれをどう見せるかのスタッフの演出が生み出したもの。ここにも彼らといっしょに生きる関係がある。

https://www.pukapuka.or.jp/art/

・相模原障害者殺傷事件の犯人は「障害者は不幸しか生まない」といったが、ぷかぷかが生み出すアート商品、お店の雰囲気は、まわりの人たちをハッピーな気持ちにさせている。事件を起こしたやまゆり園とぷかぷかでは、利用者さんとの関係が全く違うことがここからうかがえる。

・ぷかぷかさんと地域の人たちで演劇ワークショップをやっているが、そこで生まれる芝居は、いっしょに生きると何が生まれるかを具体的に示し、彼らとはいっしょに生きていった方がいい、ということが一目でわかるような作品になっている。そのワークショップの記録はこちら

https://www.pukapuka.or.jp/diary/tag/%e3%81%bf%e3%82%93%e3%81%aa%e3%81%a7%e3%83%af%e3%83%bc%e3%82%af%e3%82%b7%e3%83%a7%e3%83%83%e3%83%97/

 

「私自身が自由になれる」ということがとても大事

 ぷかぷかを応援して下さっている方のFBに

「代表の高崎さんや地域の方が、ありのままのぷかぷかさん達を優しく見守られている姿、素晴らしいですよね」

なんて言葉がありました。なんかちょっと違うよな、やさしく見守っているわけじゃないよな、と思ったので、そのことについて書きます。

 

 ありのままぷかぷかさんたちをやさしく見守る、というのはぷかぷかさんたちと距離を置いて見守ることです。いいよ、いいよ、そのままでいいよ、と距離を置いたところで見ているだけです。

 「ありのままの彼らが一番魅力的」という言葉は、ありのままの彼らとの直接的なおつきあいから生まれた言葉です。

 

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 毎朝セノーさんの目をのぞき込んで、糖尿病で目が赤くなってないかどうか検査します。セノーさんが養護学校の高等部の2年の時に担任してからずっとやってるので、もう10年以上です。

 いつの頃からかセノーさんは私の目の検査もするようになりました。こうやって時々私の目をのぞき込み

「白いねぇ。マック行ってますか?」

「行ってません。え?セノーさんはマック行ってるの?」

という会話を延々繰り返します。

 ありのままのセノーさんとの、こういうおつきあいが楽しいな、と思うのです。

 自由なセノーさんとのおつきあいの中で、私自身が自由になれます。

 「私自身が自由になれる」ということがとても大事だと思います。ぷかぷかにファンが多いのは、ありのままの彼らとのおつきあいの中で、どこかで自分が自由になれることを感じるからだと思います。

 「ぷかぷかに来るとほっとする」

という言葉は、そのことを物語っています。

 やさしく見守っていたのでは、こういう言葉は多分出てきません。もったいないですね。すぐそばにこんなに素敵な人たちがいるのに。

ブルーベリー畑でコラボ

日本フィルのチェロ奏者江原さんと、ダイちゃんの演奏(「まっすぐ」と「インドの虎狩り」)に車椅子ダンサー神原健太さんが加わるコラボを新治市民の森にあるブルーベリー畑でやりました。

 神原さんはこの炎天下、なんと十日市場の駅から車椅子を自分で動かしてブルーベリー畑まで来ました。腕は筋肉の塊でした。

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www.youtube.com

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 畑の中のコラボは気持ちのいいコラボでした。

 正式な映像ができましたら、またアップします。

 コラボの出前します。映像見て、おもしろいな、と思ったら連絡下さい。

コンちゃんはたった一人で街を耕し、豊かにしていった

「ねぇ、ぼくのこと好きですか?」と何度も迫ってきたコンちゃんが卒業した。

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 来週から就労移行の施設に変わり、企業就労を目指す。ぷかぷかは給料が安いので、ま、しょうがないのだが……

 たくさんのお客さんがお別れに来た。スタッフも泣いている。

 愛されキャラ。こんなにおもしろい人はそうそういない。

 スタッフのFB

「ぷかぷかのメンバーさんがひとり卒業した。
 リクエストされた絵を全部描いて渡した。
 泣いている絵がなぜか好きだった紺ちゃん💧
 別のところでも元気でがんばってほしいな。
 ちなみに、リクエストされたのは…
 ①コグスワース
 ②泣いているどんぶりトリオとアンパンマン
 ③じゃじゃまる ピッコロの鐘ならし
 ④ぽろりが大好物ホットケーキ
 ⑤泣いているよしこさん なぐさめるさき子
 ⑥クリームパンだが機関車を持ってる
 ⑦泣いている千尋 なぐさめるハク
 ⑧まる子とたまちゃん 仲良しの絵
 ⑨さつまいもを食べておならをしているコキンちゃん
 マニアック過ぎるwww
 

 裏にはみんなの写真とメッセージ」

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 こんな豊かな関係がコンちゃんのまわりにはいっぱいあった。コンちゃんも、まわりの人たちもみんな幸せだった。

 こんな幸せな時間を毎日プレゼントしてくれたコンちゃんがいなくなるなんて、ほんとうに寂しい。

 

 こういう関係がたくさんできたのも、ぷかぷかに自由な雰囲気があったからだと思う。ぷかぷかさんたちは、毎日ありのままの自分で仕事をしている。コンちゃんはパン屋の厨房で働いているが、気になるお客さんが来ると、いきなり厨房から飛び出し、

「兄弟いますか?」「お兄さんですか?お姉さんですか?」「お父さんはネクタイしていますか?」…

 といった質問が延々と続く。お客さんは最初ドギマギしながらも、だんだんコンちゃんのペースに巻き込まれ、笑顔になっていく。

 こういったことがアリの職場なのだ。

 メンバーさんとお客さんが自由につきあうなんて、多分なかなかない。禁止にするか、間にスタッフが割り込むかのどっちかだ。だから

「ああ、やっぱりぷかぷかに来るとほっとする」

というお客さんが現れる。

 この自由な雰囲気の中で、コンちゃんのまわりに豊かな関係がどんどん広がっていった。コンちゃんはたった一人で街を耕し、豊かにしていったのだ。

 人と人とのおつきあいで何が大切なのかをコンちゃんは毎日教えてくれた。

 コンちゃん ありがとう!

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