ぷかぷか日記

とがった心がまるくなる

 私たちのまわりにはいろんな人がいます。いっしょに生きている以上、そこではいろんな意見が飛び交い、時にうんざりするような争いになることもあります。原因は色々ですが、やはり私たちの心がとがっていることが大きい気がします。

  そのとがった心をまるくすれば、世の中の争いはもう少し収まるのではないかと思います。どうすればいいか。

 座禅を組んで心を落ち着かせたりすることも一つの方法です。もう一つ、障がいのある人と一緒に生きる、ということがあります。

 彼らといっしょに生きていると、なんだか毎日が楽しくて、なによりも心がゆるっとゆるみます。それは彼らの持っている一つのチカラだと思います。

 「ぷかぷか」のお店のまわりに「ぷかぷかさんが好き!」というファンが多いのは、お店で彼らと出会い、心がゆるっとゆるんだのだと思います。

 障がいのある人はなんとなくいや、という思いが、障がいのある人達を社会から排除していますが、あんな素敵な人達を排除するなんてもったいないと私は思います。

 毎日おつきあいしていると、色々大変なこともあります。面倒なことも次々に起こります。それでもそういったことを超える魅力、チカラを彼らは持っています。

 

 人の心をゆるっとゆるめるチカラは、社会をゆるく変えていきます。みんなのとがった心をまるくしてくれます。そうやって彼らは社会を耕しています。みんなが生きやすい社会に。

 彼らは社会にいた方がいいし、彼らとはいっしょに生きていった方がトク!です。彼らは両手で熱く包み込みたいような社会の「宝」だと思います。その話を色々書いていきたいと思います。(今まで書いたブログをまとめる、という感じですが…)

 

 本のタイトルは『とがった心がまるくなる』(ぷかぷかな物語-その②)

チャットGPT

 

 最近話題になっているチャットGPTなるものを使ってみました。で、書きためたブログを本にまとめたいと思い、チャットGPTにそのことを聞いてみました。まずブログサイトのURLを伝えたところ、一瞬で答えが返ってきてびっくり。

 

1. 全体構成/目次案

 

序章:「ぷかぷか日記」という舞台

− 「タカサキ日記」中心のブログ構成と、その背景にあるぷかぷかの理念や活動を紹介

− 日記の役割/読むことで感じられる世界観

 

第1章:共生と出会いの日々

− “障がいのある人と生きる”というテーマ

− 「詩のワークショップ」や「演劇ワークショップ」の具体的事例(仙台など) 

 

第2章:個別の物語とタグでひろがる世界

− 「しんごっちの物語」「友達大作戦」「相模原事件を超える」など重要タグを切り口に具体的ストーリーを章ごとに展開 

 

第3章:日常の中の価値と営み

− 「ぷかぷかさんのおひるごはん」「アート屋日記」「工房日記」「カフェ日記」など日常を切り取った記録から見える価値観 

 

第4章:地域との関係づくりと社会変革

− 「友達大作戦」や「地域住民との共生エピソード」など、地域社会とのつながりを通して築かれた関係性 

 

最終章:言葉と希望の力

− フィナーレ的な読後感。「詩」「朗読」「日常の言葉」が持つチカラ、希望とその広がり 

 

 

 ええ? いつ読んだの? という感じ。「しんごっちの物語」「友達大作戦」「相模原事件を超える」など重要タグを一瞬にして読み込んだようです。

 もう人間じゃない、というか、ま、実際人間ではないのですが、それにしても、びっくり!のひとこと。

 最終章に提案された「言葉と希望の力」という言葉には参ってしまいました。いいですね、「言葉に希望が持てること」「その希望には力があること」。勇気づけられます。

 こういう手がかりがあればやりやすいです。2000本近いブログがあって、どうやってまとめようかと悩んでいたのですが、少し道筋が見えた気がします。チャットGPTに感謝!です。明日から頑張ります。

すばらしい連鎖。これから何が生まれるのか、すごく楽しみ

 先日北九州の方と連絡取り合っていて、今度障がいのある娘さんと一緒にぷかぷかを訪ねてくるという話になりました。その時思い出したのがやっぱり北九州からぷかぷかを訪ねてきた家族。障がいのある息子さんとの生活がうまくいかなくて、色々悩んでいるときに、「ぷかぷか」を立ち上げ、ぷかぷかさんたちとの生活を楽しそうに語る私のブログに出会い、これは行って直接話を聞いてくるしかないと車椅子の息子さん含めて一家でやってきたニシヤマさんの話。

www.pukapuka.or.jp

 ニシヤマさんの紹介で昨年北九州のココクルで演劇ワークショップをやりました。その時に参加した方がぷかぷかの理念に共感し、また今年娘さんと一緒にぷかぷかを訪ねてくるそうです。なんかうれしいですね。そうやってぷかぷかで新しい気づきを得て、その気づきが北九州でまた新しい何かを生み出す。すばらしい連鎖ですね。これから何が生まれるのか、すごく楽しみです。

やまゆり園事件から9年

 あの忌まわしいやまゆり園事件から9年です。

 「どうしてあのような事件が起こってしまったのか」 犯人の植松だけのせいにせず、この社会を形成する私たち自身の問題として、それを考え続けることが大事だと思います。

 事件以来「共に生きる社会を作ろう」という言葉が広がってきましたが、私自身は養護学校の教員をやっていた頃、障がいのある子どもたちに惚れ込み、彼らとずっといっしょに生きていきたいと思い、定年退職を機に彼らといっしょに生きる場として「ぷかぷか」を立ち上げました。

 障がいのある人達とはいっしょに生きていった方がトク!と言い続けてきました。

 トク? え?どうして? と、障がいのある人達のことをあまり知らない多くの人は思います。

 彼らと過ごす日々は楽しいです。色々困ることは多いですが、それでも尚、いっしょに生きる日々は楽しいと私は思います。

 

     

    

     

     

      

     

 

  彼らといっしょに生きる日々は楽しい、と言い続けて15年。「ぷかぷかさんが好き!」というファンが地域社会の中でずいぶん増えました。障がいのある人達はなんとなくいや、という人達が多い中で、彼らのことが好き!という人が現れたことは画期的だと思います。ぷかぷかがやってきたことへの社会の反応といっていいと思います。共に生きる社会は、こんな風にしてできていくのだと思います。

 

 9年続けてきた演劇ワークショップは、いっしょに生きると社会が豊かになるということを目に見える形で舞台で表現してきました。

 

    

    

    

 

     

 やまゆり園事件について、あーだこーだ小難しいことを言うのではなく、彼らと過ごす楽しい日々を具体的に作り出すこと、それを社会に開かれた場で実践すること、いい一日だったねってみんなで言い合えること、そんなことが大事だと思っています。

 

 

 神戸の障害者グループのメッセージです。 

 リメンバー 7.26 神戸アクション : Remember 7.26 Kobe Action

今日の「相模原津久井やまゆり園事件を忘れない/サイレントアクション」で配布したビラのメッセージです:
 ——————-
わたしたちは津久井やまゆり園で殺された19人を忘れない
2016年7月26日、神奈川県相模原市の障害者施設・県立「津久井やまゆり園」で19人の障害者が障害を理由に殺害された事件を覚えていますか?わたしたちはその事件の翌月から、社会に根付く障害者差別と優生思想への抗議をしてきた障害者のグループです。
わたしたちの懸命の訴えにもかかわらず、今そのような風潮は激しい勢いで広まっています。外国人は優遇されているという根拠のないデマを流し、女性は産む道具、終末期医療は全額自己負担化、LGBTQ(性的少数者)の人々は存在しないなどの主張をする人たちが選挙で人気を集めていることにも、それは表れています。
生きづらさを抱えた人々のうっぷんがマイノリティへの攻撃へと向けられ、戦前日本、ファシズム、ナチズムの台頭時を思わせるような空気が社会を覆おうとしています。わたしたち障害者はそれをひしひしと感じ、家の外に出ることひとつにも恐怖を覚えています。ナチス・ドイツのジェノサイド(大量虐殺)が、障害者を抹殺するT4作戦から始まったことを知っているからです。
戦争への準備を進めようとする人たちがますます大きな権力を握ろうとしていることも許せません。戦争で真っ先に殺されるのは障害者です。パレスチナでのジェノサイド、ウクライナ、シリア、イエメン、コンゴ、南スーダン、ミャンマーなど各地での紛争で、最も悲惨な状態に置かれているのは障害者です。
「津久井やまゆり園事件」の障害者たちは、生産性を持たず、社会のお荷物であり、不幸をもたらす者として殺されました。わたしたちはその障害者たちと共に、また、外国にルーツを持つ人々、女性、性的少数者、高齢者、少数民族、部落民、公害被害者、冤罪被害者ほかすべてのマイノリティの人々と共に、真の平和と共生の社会の実現を求めて、差別と優生思想と暴力に抗議の声を上げ続けます。
リメンバー 7.26 神戸アクション

詩のワークショップ

   仙台にある福祉事業所で「詩のワークショップ」をやります。前回は利用者さんを中心に簡単な演劇ワークショップをやったので、今回は利用者さんが帰った後、夕方からスタッフと保護者だけでやります。

 利用者さんがいないことで、スタッフは「私」を取り戻すことができます。保護者の方も親ではなく、「私」として参加できます。

 そういった環境の中で

  「自分にとっていい一日とは何か」

をテーマにそれぞれ5,6行の短い詩を書きます。「私」はどう生きたいのか、それを短い言葉で表現するのです。だらだら長く書くのではなく、短い言葉に気持ちを集中させます。

 

 私たちはこういう問いをふだんあまり考えません。でも、人が生きる上で、ほんとうはいちばん大切なことだと私は思っています。「スタッフ」とか「保護者」ではなく、一人の「私」として「自分にとっていい一日とは何か」という言葉に向き合うのです。

 それは、いい一日を生きる、いい人生を生きる出発点になると思います。

 

 

 それぞれの詩をグループの中で発表したあと、詩の言葉を一行ずつ切り離し、それを今度はグループの集団詩としてまとめていきます。集団としての意思にまとめるのです。

 この作業がものすごく大変です。でも、大変な分、言葉の意味が深まります。お互いの思いが共有できます。

 

 

 そうやってでき上がった詩を、今度はみんなの前で発表します。声に出して、思いを相手に届けるのです。

 

www.youtube.com

 

 私たちはふだんからいろんな言葉を交わしています。でも、詩のワークショップという集中した場でできあがった詩の言葉には思いをしっかり伝えるチカラがあります。そのチカラは私たちをある意味、いろんな束縛から解放してくれます。自由にしてくれます。それは実際にやってみるとわかります。ものごとを頭だけで考えるのではなく、体全体で考えるのです。

 たかが言葉です。でもここで生まれた言葉は侮れません。言葉がチカラを持つこと。それはひとつの希望でもあると思います。

 

 「手に持ってゆったりと重い いい大根のような一日がいい」

 

 長田弘さんの「ふろふきの食べ方」という詩を最後にみんなで朗読しようかなと思っています。

 

 あなたのところでもこんな詩のワークショップ、やってみませんか?いろんな新しい気づきがあります。新しい出会いがあります。「あ、おもしろそう」って思われた方はぜひ連絡ください。takasaki@pukapuka.or.jp高崎まで。

詩のワークショップ

 仙台にある福祉事業所で「詩のワークショップ」をやります。前回は利用者さんを中心に簡単な演劇ワークショップをやったので、今回は利用者さんが帰った後、夕方からスタッフと保護者だけでやります。

 利用者さんがいないことで、スタッフは「私」を取り戻すことができます。保護者の方も親ではなく、「私」として参加できます。

 そういった環境の中で

  「自分にとっていい一日とは何か」

をテーマにそれぞれ5,6行の短い詩を書きます。「私」はどう生きたいのか、それを短い言葉で表現するのです。だらだら長く書くのではなく、短い言葉に気持ちを集中させます。

 私たちはこういう問いをふだんあまり考えません。でも、人が生きる上で、ほんとうはいちばん大切なことだと私は思っています。「スタッフ」とか「保護者」ではなく、一人の「私」として「自分にとっていい一日とは何か」という言葉に向き合うのです。

 それは、いい一日を生きる、いい人生を生きる出発点になると思います。

 

 それぞれの詩をグループの中で発表したあと、詩の言葉を一行ずつ切り離し、それを今度はグループの集団詩としてまとめていきます。集団としての意思にまとめるのです。

 この作業がものすごく大変です。どの言葉が最初に来るのか、どの言葉が最後に来るのか、真ん中にはどの言葉がふさわしいのか等々、喧々がくがくの議論が始まります。みんなで「ああだこうだ」言い合いながら、言葉の意味が深まります。お互いの思いが共有できます。

 そうやってでき上がった詩を、今度はみんなの前で発表します。声に出して、思いを相手に届けるのです。声に出すと、詩が生き物のようにムクムクと立ち上がります。

 私たちはふだんからいろんな言葉を交わしています。でも、詩のワークショップという集中した場でできあがった詩の言葉にはみんなの思いが詰まっています。ですからそこで生まれた言葉にはチカラがあります。人の心を揺り動かすチカラです。

 そのチカラは私たちをいろんな束縛から解放してくれます。自由にしてくれます。それは実際にやってみるとわかります。ものごとを頭だけで考えるのではなく、体全体で受け止め、考えるのです。

 たかが言葉です。でもここで生まれた言葉は侮れません。言葉がチカラを持つこと。それはひとつの希望でもあると思います。

 

 「手に持ってゆったりと重い いい大根のような一日がいい」

 

 長田弘さんの「ふろふきの食べ方」という詩を最後にみんなで朗読しようかなと思っています。

 

 あなたのところでもこんな詩のワークショップ、やってみませんか?いろんな新しい気づきがあります。新しい出会いがあります。「あ、おもしろそう」って思われた方はぜひ連絡ください。takasaki@pukapuka.or.jp高崎まで。

美帆ちゃんのこと忘れないよ

 先日ある新聞社の記者から、その後やまゆり園事件について何かやってますか?という質問が来ました。特にやっていません、と回答しました。以前は事件を考えるためのイベントを色々やっていましたが、イベントをやっても社会が変わるわけでもなく、最近は何もやっていません。

 イベントはやっていませんが、「障がいのある人たちといっしょに生きていく」ということを、就労支援事業所、生活介護事業所を運営するという形でやっています。

 「障害者はいない方がいい」という事件のメッセージに対する私たちの応えです。

www.pukapuka.or.jp

 

 障がいのある人達と日々一緒に過ごすことを楽しい、と思えること。そう思う人が増えること、それが日々の暮らしの中で自然にできること、それが事件を超えることだと思います。

 

 ぷかぷかのメンバーさんの中に、事件で犠牲になった美帆ちゃんの誕生日に、毎年のように誕生日カードを描く人がいます。丁寧に丁寧にカードを描きます。できあがったカードは私の方で美帆ちゃんのお母さんに送るようにしています。

 

美帆ちゃんは唐揚げが好きでした。なので、美帆ちゃんの誕生日には給食が唐揚げになったりします。

 こういうことが事件を忘れない、ということだと思います。コムツカシイ話をするイベントではなく、給食の唐揚げ食べながら、「そういえば美帆ちゃん、唐揚げが好きだったんだよね」って思い出したりする方が、長く続けられる気がします。

 

   障がいのある人達と楽しい毎日を過ごすこと、それがあの忌まわしい事件を超えることです。「支援」という上から目線ではなく、どこまでもフラットな関係でおつきあいすること。そこがすごく大事だと思います。

 

       

 

おつきあいしないとソン!

 10年ほど前だったか、東北は花巻にお住まいの方が、スーパーの駐車場でうろうろしていた息子が不審者として通報され、警察に保護されました。何もしゃべらないので、警察も困ってしまい、本人の持ち物から家の方に連絡が入り、先ほど迎えに行ってきました。本人は何もしていないのに不審者扱いされ、警察に通報されたりしたことがとても悲しいです、と本人の写真入りでFacebookに投稿がありました。

 私はその写真を見て、「いやぁ、いい男だなぁ」と「一目惚れ」。すぐにお母さんに連絡を取りました。「お母さん、大丈夫ですよ、私は一目で息子さんに惚れ込みましたよ。息子さん、すごく魅力的です。自信を持って生きていきましょう」と伝えました。息子さんはアンジェルマン症候群で私が養護学校の教員になって最初に出会った子どもがサト君というアンジェルマン症候群の子どもでした。

 障がいのある子どものことを何も知らずにいきなり現場に飛び込み、毎日どう対応していいかわからずオロオロしていた私にサト君は

「いや〜、おもしれえ、おもしれえ、がはは、がはは」

 

 そんなこともあって、花巻の不審者に間違えられた青年の写真見て、こんな魅力あふれる青年を警察に通報してしまう社会が悲しくなりました。駐車場でどうしていいかわからず、うろうろしている青年に「どうしたの?」と一声かけてあげればすんだ話です。おつきあいがない、ということは、こういう悲しい現実を生み出してしまいます。

 どんな形でもいい、彼らとおつきあいすること、それがお互い気持ちよく暮らせる社会を作っていく出発点だと思います。

 この魅力あふれる青年、見て下さい!私はこういう青年、大好きです。おつきあいしないとソン!こういう青年がいてこそ、社会は豊かになります。

 

持続可能な社会

 「SDGs(持続可能な開発目標)の達成に向けて何ができるか」

がテーマで先日岩佐教育文化財団というところからアイデアの募集がありました。 

sdgs-iwasazaidan.com

 

 そりゃやっぱり、障がいのある人たちといっしょに生きることだと思います。毎日楽しいし、何よりもどこかゆるっとします。あっちもこっちもがっちり決められた社会は窮屈。息苦しい。こんな社会はみんな疲れてしまって長続きしません。

 

 

 写真の、こういう人たちこそが社会をゆるっとしたものにして、持続可能な社会にしてくれるのだと思います。あーだこーだややこしいこといわなくても、一緒に楽しい毎日を過ごすだけ。

 そりゃもちろん、面倒なことや、大変なこともたくさんあります。言うことがうまく通じないとか、思うように動いてくれないとか、どこかへ行ってしまうとか、大声を出すとか……。でも、それが彼らといっしょに生きるということです。だからおもしろい!と私は思うのです。ま、好みっていえばそれまでですが、それで済ませてしまうのはもったいない。

 

 いろんな規範に縛られた社会は長続きしません。ゆるっとゆるんだ社会こそが長続きするように思うのです。

詩の朗読

先日仙台でワークショップやったとき、詩の朗読をしました。読んだのは長田弘さんの「ふろふきの食べ方」。

 

ふろふきの食べ方

自分の手で、自分の
一日をつかむ。
新鮮な一日ををつかむんだ。
スがはいっていない一日だ。
手にもってゆったりと重い
いい大根のような一日がいい。

それから、確かな包丁で
一日をざっくりと厚く切るんだ。
日の皮はくるりと剥いて、
面取りをして、そして一日の
見えない部分に隠し刃をする。
火通りをよくしてやるんだ。

そうして、深い鍋に放りこむ。
底に夢を敷いておいて
冷たい水をかぶるくらい差して、
弱火でコトコト煮込んでゆく。
自分の一日をやわらかに
静かに熱く煮込んでゆくんだ。

こころさむい時代だからなあ。
自分の手で、自分の
一日をふろふきにして
熱く香ばしくして食べたいんだ。
熱い器でゆず味噌で
ふうふういって。

 

 ひとり一行ずつ読んだ後、「ひとりで全部読みたい人」と呼びかけたところ、ふたりほど前に出てきてくれて読みました。そのひとりが多夢多夢のメンバーしょうちゃんです。企画をした千尋さんのブログ

 

『演劇ワークショップの最後に「詩を読みたい人いますか?」と高崎さんがたずねたところ、スッと自然に前に出てきてくれた、タムタムメンバーのしょうちゃん。

音楽に合わせて、とても丁寧に詩を読んでくれて、それをみんなでうっとりと聞き入りました。
ずーーっと聞いていたい、豊かな時間でした。』
 
 詩を朗読する、誰かに向かって声を出して詩を読む、ただそれだけのことが
 

「ずーーっと聞いていたい、豊かな時間」

を生み出したのです。

 あの時しょうちゃんの周りにいた人達が「出てみたら」って声をかけたそうですが、声をかけたくらいでは人前で朗読はできません。やっぱりしょうちゃん自身が「読もう」っていう気にならないとこんなことはできません。

 そうさせたのは、詩の言葉であり、朗読することで生まれる場のチカラだったのではないかと思います。それがこの奇跡のような時間を生み出した。何よりも障がいのある人たちといっしょにやったからこそ生まれた豊かな時間。

 障がいのある人達がいなければ、こんな時間は生まれませんでした。そのことの意味をしっかり考えていきたいと思うのです。

 

www.youtube.com

 

仙台でのワークショップ

www.pukapuka.or.jp

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