ぷかぷか日記

いっしょにいると心ぷかぷか

今朝の東京新聞社会面

 

 げんなりするような記事でした。

 

 共同通信47NEWS
 
 東京都府中市の社会福祉法人で、市職員OBの男性元副理事長が約10年間、知的障害の利用者らに虐待を繰り返し、行政に十数回内部告発や通報があったのに、市が7年余りの間、虐待を認定していなかったことが26日、分かった。法人の第三者委員会がまとめた調査報告書を共同通信が入手し、判明した。
 第三者委は「市や都、国が積極的に指導に踏み切らなかったために問題を長期化、深刻化させた。責任は重い」と指摘。利用者の保護者からは「虐待で子どもは心に深い傷を負った。市がちゃんと対応してくれていたら、こんなことにはならなかった」と市の不作為を問う声が出ている。法人への遠慮や事なかれ主義が背景にあったとみられる。
 問題の社会福祉法人は「清陽会」。府中市で知的障害者の作業所などを複数運営している。
 第三者委は、保護者から要求を受けた市の指導で法人が2021年に設置した。22年3月にまとめられた報告書は、元副理事長が約10年前から身体的・心理的虐待をしていたことを認定。「利用者を押し倒し、顔を押さえつけた」「ビンタをした」といった暴行のほか、「おまえの顔なんて見たくもねえ」などの暴言もあった。元副理事長以外の職員による虐待も認められた。
 元副理事長はこのほか①規定外の給与を受給②職員のタイムカードを改ざん③職員への暴行・暴言などパワーハラスメント―もしていた。内部で問題化した後の20年末に退職した。同法人では、過去10年間で利用者への工賃不払いも1億円以上あった。
 最初の虐待通報は13年にあったが、府中市が虐待を認定したのは20年7月。市の担当者は「もっと早い対応が必要だったと思う。利用者には申し訳ない」としている。市は今年1月から社会福祉法に基づき、同法人への特別監査を進めている。
 同法人の千田恵司(ちだ・けいじ)理事長は「現段階では取材には応じられない」、元副理事長は家族を通じて「話すことはない」としている。
「どうせ話せない」と暴行 
 職員恐怖支配、隠蔽も 
 「どうせ家で話せるわけはないから大丈夫」と知的障害者を暴行。元副理事長への恐怖感で職員は反論できず、組織は隠蔽(いんぺい)体質―。東京都府中市の社会福祉法人「清陽会」の第三者委員会がまとめた調査報告書には、元副理事長による利用者や職員への暴行・暴言、法人を私物化していた実態が詳細につづられていた。
 報告書によると、元副理事長は自閉症で行動障害がある利用者に「うるさい!」などと怒鳴るほか、拳で利用者の頭をたたいたり往復ビンタをしたりしながら〓(口ヘンに七)る行為を何度もしていた。
 職員にも「能なし」「頭がおかしいから病院で診てもらえ」などと発言。殴るなどの暴行もあり、ハラスメントに耐えかねて辞めた職員もいた。
 元副理事長の妻と娘も職員として在籍していたほか、自治体の監査の前には書類を改ざん。「組織として隠蔽体質が根強い」「事業の収益が何に使われたのか報告が一切なかった」という職員の証言があった。
 利用者の家族や職員からは行政への不信感も。「知人が心配して都庁に連絡してくれたが、握りつぶされたと感じている」「市や労働基準局に通報したが、注意程度で終わってしまい、訴えた人は精神的にまいってしまい退職した」といった声が紹介されている。
 元副理事長は退職後に法人へ提出した文書で虐待を否定した上で、「記憶にない事象での行動がある場合は深くおわび申し上げる」などと弁明。第三者委の面談依頼は拒否していた。
 第三者委は「副理事長に権限が集中し、理事会や評議員会が十分に機能していなかったことが長年の人権侵害の背景にある」と指摘した。
 
●●●
 
 どうしてこういったことが起こるのか。
 これは副理事長や理事会、評議会だけの問題ではないような気がします。やはり社会全体の障がいのある人達をどんな風に見ているかが反映していると思います。
 「どうせ家で話せるわけはないから大丈夫」「能なし」「頭がおかしいから病院で診てもらえ」と、相手に対して失礼極まりないことを平気で口にする感覚。こういう感覚が、どうして支援の現場で生まれるのでしょう。
 いつも言ってることですが、やはり障がいのある人達と人としてきちんとおつきあいしていないせいだと思います。すべてとはいいませんが、「支援」という上から目線の関係が人としてフラットにおつきあいすることを阻害し、こういう感覚を生み出しているのではないかと思います。
 お互い人としてつきあう、たったそれだけのことができない。やまゆり園事件の犯人が、障がいのある人達と人としておつきあいしていれば、あの事件は起こりませんでした。今回の虐待事件も同じです。
 
 ぷかぷかでは障がいのある人達と「いっしょにいると心ぷかぷか」になるような関係で日々を過ごしています。そんな日々を記録した『The Secret of Pukapuka』という映画があります。

 機会があればぜひ上映会を企画してみて下さい。映画を見ると、心ぷかぷかになります。心ぷかぷかになれば、虐待は起こりません。

 
ぷかぷかではお客さんとこんな関係。

たかが詩の朗読ですが…

 昨日、区役所で精神障害の人達の集まりがあり、詩の朗読ワークショップをやりました。

 

 統合失調症の方が多く、なんとなく重い雰囲気。場を盛り上げないと詩の朗読まで持って行けないので、「マルマルマル」と「雨の音楽」を歌いました。

 「マルマルマル」はこんな風にして隣の人の膝に触れながら歌います。歌に併せて隣の人の肩に触れたり、自分の鼻と耳を同時にさわったりしているうちに心と体が自然にほぐれてきます。

みるみるこんな笑顔になります。

 

オペラシアターこんにゃく座の「雨の音楽」も歌いました。歌詞の合間に手拍子を入れ、みんなぐんぐん元気が出たようでした。

www.youtube.com

 

 体と心が少しほぐれた後、いよいよ詩の朗読。長田弘さんの「ふろふきの食べ方」です。

 

 自分の手で、 自分の

 一日をつかむ。

 新鮮な一日をつかむんだ。

 スが入っていない一日だ。

 手に持ってゆったりと重い

 いい大根のような一日がいい。

 

 それから 確かな包丁で

 一日をざっくりと厚く切るんだ。

 日の皮はくるりと剥いて

 面取りをして、そして一日の見えない部分に隠し刃をする。

 火通りをよくしてやるんだ。

 

 そうして深い鍋に放り込む。 

 底に夢を敷いておいて、

 冷たい水をかぶるくらいさして、

 弱火でコトコト煮込んでゆく。

 自分の一日をやわらかに

 静かに熱く煮込んでゆくんだ。

 

 こころさむい時代だからなぁ。

 自分の手で、自分の

 一日をふろふきにして

 熱く香ばしくして食べたいんだ。

 熱い器でゆず味噌で

 ふうふういって。

 

 

 この詩を模造紙に書いて壁に貼り、まずは全員で一人一行ずつ読みます。そのあと二グループに分かれ、今度は相手グループに向かって読みます。漠然と読むのではなく、目の前に言葉を届ける相手がいると、読む時の気持ちが変わってきます。ここが朗読のおもしろいところです。

 「なんか、すっきりした」

と感想を言った方がいました。朗読する、つまり自分を表現することがどういうことなのか、をとてもうまく語っています。

 

 誰かに向かって読む

 

 2回ほどこの朗読を繰り返したあと、

「一人で読んでみたい方がいましたら手を上げて下さい」

というと、なんと4人もの人が手を上げてくれました。一人ずつ堂々とみんなの前で朗読しました。

 統合失調症という大変な障害を抱え、週一回のこの集まりに出てくるだけで精一杯という人が多いと聞きました。なのに、ワークショップの最後、みんなの前で朗読する人が現れたのです。ちょっとびっくりでした。

 たかが詩の朗読です。でも、それは人の心を揺り動かし、人生を少しだけ前に進めるほどのチカラがあるのだと思いました。

  ※文中の写真は東洋英和女学院大学と創英大学でのぷかぷかのメンバーさんと学生さんとのワークショップの様子です。

  ※文中の動画はオプラシアターこんにゃく座さんのものを許可をとり載せています

詩の朗読ワークショップ

 区役所の精神障害の人達の集まりで詩の朗読ワークショップをします。読むのは長田弘さんの「ふろふきの食べ方」という詩です。

 

 自分の手で、 自分の

 一日をつかむ。

 新鮮な一日をつかむんだ。

 スが入っていない一日だ。

 手に持ってゆったりと重い

 いい大根のような一日がいい。

 

 それから 確かな包丁で

 一日をざっくりと厚く切るんだ。

 日の皮はくるりと剥いて

 面取りをして、そして一日の見えない部分に隠し刃をする。

 火通りをよくしてやるんだ。

 

 そうして深い鍋に放り込む。 

 底に夢を敷いておいて、

 冷たい水をかぶるくらいさして、

 弱火でコトコト煮込んでゆく。

 自分の一日をやわらかに

 静かに熱く煮込んでゆくんだ。

 

 こころさむい時代だからなぁ。

 自分の手で、自分の

 一日をふろふきにして

 熱く香ばしくして食べたいんだ。

 熱い器でゆず味噌で

 ふうふういって。

 

    (長田弘詩集 『食卓一期一会』より)

 

 

 詩は一人で黙って読んでもいいのですが、誰かに向かって声を出して読むと、詩が全く違ったものになります。詩がムクムクと動き始めます。そういったことをリアルに感じるワークショップです。

 参加者は2グループに分かれ、BGMをかけながら相手のグループに向かって詩を読みます。誰かに向かって言葉を発すると、言葉に思いがこもります。受け止めた側にその思いが伝わります。詩が単なる言葉ではなく、生き生きと生きたものになります。

 そういったことを感じて欲しいなと思っています。

 

(詩を朗読する)

 

 あ、なんだかおもしろそう、って思われた方は機会見つけてぜひ一緒に詩の朗読会やりましょう。問い合わせはぷかぷかの高崎まで info@pukapuka.or.jp

※文中の写真はぷかぷかの「演劇ワークショップ」の際のものです

  

犯人がもしぷかぷかにいたら、あんな事件は起こらなかったよね

毎日新聞の上東さんとやまゆり園事件の話をしていて、

「犯人がもしぷかぷかにいたら、あんな事件は起こらなかったよね」

という話になりました。全く同感で、以前そういったことをブログにも書いています。

www.pukapuka.or.jp

 

 やまゆり園の利用者さんたちがスタッフと下の写真のような関係だったら事件は起きませんでした。

 

スタッフがやめる時は、抱き合って泣くぷかぷかさんもいました。

 

 これが「いっしょに生きていく」ということです。

 要するに相手と人として対等につきあっているからこそ、こういうことが日常的に起こります。支援という上から目線の関係では、こういったことは多分起こりません。

 

 やめていくスタッフがぼそっとこんなことを言ったことがあります。

 「ぷかぷかさんて障害者だったのね。ずっと忘れてたわ」

 ちょっと笑ってしまいましたが、けだし名言です。

 こういう言葉がぽろっと出てくるのも、人として対等につきあっているからです。だから一緒に楽しいことがたくさんできた。下の写真はみんなでケヤキの木になるワークショップ。

 

 犯人がこんな環境にいれば、あのような事件は起こりませんでした。ふつうに考えればすぐにわかることです。にもかかわらず、やまゆり園の環境はほとんど問われないまま、犯人に死刑を宣告することで事件は終わったように受け止められています。

 でも、冒頭で書いた

「犯人がぷかぷかにいたら、あんな事件は起こらなかったよね」

の問いは、この事件の本質を突いているように思うのです。支援という関係性と事件について、もっともっと検証せねばと思うのです。

 

 毎日新聞上東さんの記事

mainichi.jp

今日というかけがえのない一日を作りだして

 久しぶりに「でんぱたさん」たち(ぷかぷかの生活支援事業所「でんぱた」で働く人達)に会いに行ってきました。

 

 働いている人がいて、倉庫で休んでいる人がいて、こういうたたずまいがいい。

 

 

たい肥の切り返しをしようと思って、何かを思い出した?

 

落ち葉を集めようとして固まってしまって…

 

こういう感じ、いいなぁ。

 

何を思ったのか、畑で気をつけをしたりして…

 

竹の大きなちりとりを持って…

 

ものすごく熱心

 

たい肥を切り返す

 

たい肥を運ぶ

 

玉ねぎを乾かすためにひもで縛る。

君の見つめる先には…

 

君は何を思う?

 

 みんながそれぞれのやり方で今日というかけがえのない一日を作りだしている。

ほっこりした、いい時間をありがとう

 ぷかぷかにパンを買いに来て、パン屋の前のテーブルで食事されたお客さんが、自分のFacebookに

 「ほっこりした、いい時間をありがとう」

と写真と一緒にアップしてくれました。

       

       

 

 障がいのある人達の働く場所が、ほっこりしたいい時間を提供しています。彼らが社会にいることの意味を端的に語っているように思います。

 彼らが社会にいることの意味がそんな風に変わってくれば、彼らにとってはもちろん、誰にとっても社会はもっと居心地のいいものになります。それを阻んでいるのはなんなんだろう、と思います。

 以前ほかの福祉事業所に行ったお客さんが、

「やっぱり、ぷかぷかに来るとホッとします」

とおっしゃってましたが、要はそういうことなんだろうと思います。

 彼らとどういう関係を作っているのか、という私たち自身の問題であり、そここそが問われているように思うのです。

 支援ではなく、いっしょに生きる。そういう関係の時、彼らの働く場がほっこりしたいい時間を提供することになるのだと思います。

看護学校で授業

 看護学校の精神科看護で授業をすることになりました。中身はお任せということだったので、『不安の正体』という、精神障害者のグループホームの建設反対運動を取り扱った映画を上映し、自分の関わっている精神障害の人がそういった問題に直面した時、どういった言葉をかければいいのかを考える授業をやろうと思っています。こういった社会的な問題は教科書に載っていないし、看護学校では多分取り扱わないので、貴重な授業になると思います。

       

 映画の中に反対住民の怒号が入っていますが、精神障害の人達に対する偏見が満ち満ちています。その偏見にどう向き合うのか、というのが授業のテーマです。

 精神障害はそれ自体、幻聴、幻覚をはじめ、体が動かなくなるなど、生きることに私たちが想像できないほどの困難さ(=生きにくさ)をもたらします。精神障害者への地域の人達の偏見は、社会的生きにくさを生みます。ですから彼らは二重に生きにくさを背負い込むことになります。

 障害そのものが生み出す幻聴、幻覚などの生きにくさは私たちには手に負えません。でも偏見から生じる社会的生きにくさについては、社会を構成する私たちの問題であり、何か私たちにもできることがあるはずです。そこでは何が問題であり、どうすればいいのかを授業の中で考えてもらおうと思っています。

 精神障害者への偏見はどうして生まれるのか、どうすれば偏見は解消できるのか。反対住民の怒号を聞いていると、心がとがっていることを感じ、本当に悲しくなります。そのとがった心を丸くするにはどうしたらいいのか。そういったことを考える授業です。

 私たちの生き方そのものが問われるような授業になると思います。

頑張らなくていい、ありのままのあなたでいい。

昨日の東京新聞に載っていた伊是名夏子さんの「障害者は四つ葉のクローバー」

 

 記事の最後に「頑張らなくても、その人がその人のままで安心して、幸せに生きていける場所が増えることを願います」とありますが、ぷかぷかはひょんなことがきっかけでそういう場所になりました。

 

 何度か書いていますが、ぷかぷかを始めてすぐの頃、接客の勉強をしようと、講師を呼んでぷかぷかさんとスタッフで勉強会をしました。接客マニュアルというのがあって、その通りにやるとうまくできると教わりました。ところが実際にぷかぷかさんがやってみると、なんだか気色悪いのです。接客マニュアルに合わせようと頑張れば頑張るほど、自分を押し殺すことになり、その姿はひたすら痛々しく、彼らに惚れ込んでいた私にとってはもう耐えがたいほどに気色悪かったのです。

 で、接客マニュアルに合わせることはやめました。もうそのままでいいよ、と。

 とはいうものの、そのままの彼らでお店をやっていけるんだろうかと不安でした。ところが、そのままの彼らの魅力に気づいたお客さんが次々に現れ、「ぷかぷかさんが好き!」とまでいってくれるお客さんが現れたのです。

 「なんだそのままでいいじゃん」と思いましたね。その延長に今のぷかぷかがあります。

 「頑張らなくていい、ありのままのあなたでいい。」「ありのままのあなたが一番魅力的」は、こうやって生まれました。

 頑張らなくても、その人がその人のままで安心して、幸せに生きていける場所にぷかぷかはなっています。

インクルーシブ教育というのは、学校だけでなく、社会においてこそ必要

 先日インクルーシブ教育について考える集まりにいってきました。

 大阪の豊中市立南桜塚小学校は、障がいを理由に学びの場を分けない取り組みで注目を集めていて、そこの校長先生がきていろんな話をしてくれました。全盲の子どももみんなと一緒に給食当番をするそうです。そういう子どもを特別扱いすることなく、当たり前のように一緒に給食当番をしています。こういうところがすごいなと思います。色々大変こともあると思います。でも、その大変なことをみんなで背負い込み、どうしたら一緒にできるんだろうとみんなで考え、みんなで解決していってるところがすばらしいと思います。そこにこそ障がいのある人と一緒に学ぶ意味があります。この子たちが将来どんな未来を作るんだろう、とちょっとわくわくします。

 

 ぷかぷかは法人の設立目的に、障がいのある人達の社会的生きにくさを少しでも解消する、ことを挙げています。非インクルーシブな社会の中で、障がいのある人達はいろんな場面で生産性が低いとか、理解力がないとか、みんなのできることができないとか、負のレッテルを貼られ、様々な形で社会的な生きにくさを背負わされています。

 そういった問題が少しでも解決できないかと考え、街の中に彼らの働くお店を作りました。彼らが排除される一番の理由は、彼らのことをよく知らないことにあります。学校では障がいのある子どもとない子どもをわけられ、社会に出ても、お互いがおつきあいする機会がほとんどありません。知らないが故に、負のイメージばかりがふくらんで、彼らがいない方が社会が効率よく回る、と彼らを排除する方向に動いてしまいます。

 街の人たちに障がいのある人達に出会って欲しい。そんな思いで街の中に彼らの働くお店を作ったのです。結果、彼らとのたくさんの出会いが生まれました。「ぷかぷかさんが好き!」というファンまで現れました。障害者はなんとなくいや、怖い、近寄りたくない、という雰囲気がまん延する中で、彼らのことが好き!なんていう人が現れたのは画期的です。ぷかぷかのまわりが少しずつインクルーシブな社会に変わっていったのです。

 インクルーシブ教育というのは、学校だけでなく、社会においてこそ必要な気がします。

たかが似顔絵

 リクエストに応じてお客さんの似顔絵を描くことが多いです。写真を撮り、それを見ながら何人かのぷかぷかさんが楽しい似顔絵を描きます。

               

             

             

             

        

       

 

 この似顔絵たちは、障がいのある人達に何かやってあげる関係を、私たちの側がハッピーな気持ちをもらう関係に変えます。名刺に使うと、相手もちょっとハッピー。

 

 何かやってあげるとか、支援するとかではなく、私たちがハッピーな気持ちをもらう。似顔絵は、ともに生きることの意味を端的に語っています。似顔絵のチカラをあらためて思ったりするのです。このチカラは、社会を少しずつ変えていきます。

 たかが似顔絵です。ですが、なかなか侮れません。

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