重度障がい者と言われているタカダさんの、この静かな目。
一眼レフのファインダーを覗いていて見つけた目。
「あっ、タカダさんて、こんな目をするんだ」
って思いました。こんな目で世界を見てるんだ、って。
なんかね、タカダさんとあらためて出会ったような気持ちでした。
会えばいつも笑顔を向けてくれるタカダさんです。でも一人の時はこんな静かな目で世界を見てるんだって思いました。
何を思っているのだろう。
こんな目で見つめられたら、いい加減なことできないな。
重度障がい者と言われているタカダさんの、この静かな目。
一眼レフのファインダーを覗いていて見つけた目。
「あっ、タカダさんて、こんな目をするんだ」
って思いました。こんな目で世界を見てるんだ、って。
なんかね、タカダさんとあらためて出会ったような気持ちでした。
会えばいつも笑顔を向けてくれるタカダさんです。でも一人の時はこんな静かな目で世界を見てるんだって思いました。
何を思っているのだろう。
こんな目で見つめられたら、いい加減なことできないな。
おもしろい記事を見つけました。
とても長い記事ですが、後半部分に、障がいのある人たちの働く意味を問い直そうという動きが出てきているという話を見つけました。
福祉事業所には「目標工賃達成加算」というのがあって、利用者さんに支払う工賃(給料)が地域の最低賃金の三分の一を達成できたかどうかで、福祉サービスの報酬に加算がされます。売り上げを上げ、給料を上げた事業所に、報酬の加算がされる、という仕組みです。
でも仕事には直接お金は生まないけれど、大切なものがたくさんあります。
たとえば何度か書きましたが、セノーさんが郵便局に入金に行き、窓口で「あ〜、あ〜」と毎日繰り返すことで、郵便局で働いている人たちがセノーさんのファンになり、セノーさんが来ることをとても楽しみにするようになりました。
障がいのある人たちを排除することの多い今の社会にあって(津久井やまゆり園事件はその象徴的なもの)、セノーさんが来ることを楽しみにする人を作り出したことは特筆すべき出来事のように思います。しかもそれをセノーさん自身が作り出したのです。
そういった地域社会を豊かにするようなことも、障がいのある人たちの仕事として評価していこうという動きがあるというのです。
6年ほど前、歌の好きなミズキさんの実習の反省会があったときのことです。ミズキさんはひと時代前の加山雄三や千昌夫などの古い歌が好きだというので、一人暮らしのお年寄りのところへお弁当を配達して、ついでに古い歌を歌ってあげるような「歌付き弁当」ができたらおもしろいね、みたいな話をしたことがあります。
懐かしい歌を聴いて、多分お年寄りの方は大喜びです。おいしいお弁当食べて、懐かしい歌が聴けるなんて、すごくお得な弁当です。単調な暮らしにあっては、とても生き生きとした時間になります。またお弁当頼もうかな、という思いは、小さな楽しみを未来に作ることです。
ミズキさんにまた来て欲しい、という思いは、障がいのある人たちのイメージをひっくり返します。「歌付き弁当」はこうやって弁当の価格以上の働きをするのです。
ミズキさんの優しい接客にふれた人たちがファンになって、時々贈り物が届きます。私たちにはまねできない貴重な働き方です。
「おひさまの台所」が開店する前、スチームコンベクションを買うための助成金の申請書に「歌付き弁当」の企画を書いて、それが評価され、なんと100万円の助成金をもらうことができました。今、「おひさまの台所」の厨房で大活躍しているスチームコンべくションは、その100万円で買ったものです。
パン教室、大学での授業、区役所の人権研修会、津久井やまゆり園事件をテーマにした上映会など、ぷかぷかは社会を耕す活動をたくさんしています。いずれもぷかぷかさん達が大活躍しています。そういった活動を、障がいのある人たちの大切な仕事として評価されるようになれば、すごくうれしいです。
福祉の業界が障がいのある人たちの働く意味を見直す動きが出てきたことはすごくいいことです。ここから社会が変わります。
ルポ『命の選別』を読みました。
「命の選別」という気の滅入るような内容を扱った本ですが、それでもぐいぐい引きつけるものがあって、一気に読んでしまいました。この本を読んであらためて気づいたことがあります。どんなに困難な状況にあっても、人は生きていきます。人が生きていく時、そこには希望が生まれます。
医療先端技術の重い問題を扱った章は
「この春、絵瑠ちゃんは小学生になった」
の言葉で終わります。いっしょにお祝いしたいようなあたたかい気持ちになりました。
丁寧な取材によって生まれた希望を感じさせる本です。希望があれば、気の滅入るような現実であっても、私たちは明日に向かって生きていけます。
第1章 妊婦相手「不安ビジネス」ー新型出生前診断拡大の裏側
第2章 障がい者拒み「地価下がる」ー施設反対を叫ぶ地域住民
第3章 見捨てられる命ー社会的入院、治療拒否される子どもたち
第4章 構図重なる先端技術ーゲノム編集の遺伝子改変どこまで
第5章 「命の線引き」基準を決める議論ー受精卵診断の対象拡大
第6章 誰が相模原殺傷事件を生んだのかー人里離れた入所施設
第7章 「優生社会」化の先にー誰もが新たな差別の対象
終章 なぜ「優生社会」化が進むのかー他人事ではない時代に
恐ろしいほどの現実がここにあります。こんなにもひどい社会になっていたのかとあらためて思いました。放ったままにしておくと、もっとひどい社会になります。
どうしたらいいのか。私たちに何ができるのか。ここがすごく大事です。
ぷかぷかさん達は選別される側にいます。ですから彼らの働く福祉事業所としては他人事ではないし、放っておけないのです。
私はどこまでも彼らの側に立とうと思っています。崇高な理念ではありません。ただただ彼らのことが好きなのです。いっしょに生きていく。その方がいい、その方がトク!だと思っています。彼らと出会う場、出会う機会があれば、人は変われます。人が変われば、社会が変わります。そのことにつきると思います。
選別される側がかわいそう、というのではありません。選別される側の人たちは、実は魅力溢れる人たちだからです。彼らは、いることで社会を豊かにします。こんな人たちを選別し、排除することは、すごくもったいないことであり、社会がどんどん貧しくなります。
彼らといっしょに生きていくことは、社会を救います。
目次を見て下さい。たとえば第2章にある障がい者グループホームの建設に反対する人たちの問題は、もしそこに障害のある人たちと日々おつきあいしている人がいて「いや、障がいのある人たちも楽しいよ。いっぺん会ってみようよ」って提案し、反対している人達が実際に会うことになれば、反対運動は多分その根拠を失います。反対運動の根拠は、ただ彼らを知らないことから生まれているからです。
こんな人たちと一度でも会ったら、もう反対なんかできません。とがった心がいつの間にか丸くなります。
その章で紹介されている青葉メゾンの話。ここが立つ時も建設反対運動があり、それに対して施設側が機動隊を導入し、泥沼状態でした。私は友人と間に入ってなんとか話し合いで解決しようとしたのですが、反対する側も、施設を建てる側も、リーダーがひどすぎました。こじれた原因はこのリーダーの資質が大きかったと思います。
あれから20年。今地域の人たちと施設の人たちはとても仲良くやっているそうです。運営する人たちの努力が見えます。それでも、その一番の功労者は施設を利用する障がいのある人たちだったと思います。彼らの日々の姿が地域の人たちの心を少しずつほぐしていったのだと思います。
彼らは、いることで社会を豊かにします。それは今、ぷかぷかを運営していて、いちばん思うことです。
この本、ぷかぷかに何冊かおいておきます。手に取ってご覧下さい。ああ、これは他人事ではないな、と思ったらぜひ買って下さい。
30年前に書いた『街角のパフォーマンス』が電子本になります。電子本を作っている「22世紀アート」という会社から声がかかりました。
はじめは『ぷかぷかな物語』を国会図書館で見つけ、おもしろいので電子本にしませんか?というお誘いでした。でも、これは出版元の現代書館が電子本にする予定になっていたので(12月18日からアマゾンほか、紀伊国屋や楽天など、主要電子書籍店で購入できます)、『街角のパフォーマンス』を電子本にすることになりました。
制作の経費はこちら持ちです。20万円近い見積書が来ました。①本書籍の制作分析 ②テキスト化/PDF化 ③DTP制作など、これが妥当なものなのかどうかよくわからないので、『街角のパフォーマンス』の出版元太郎次郎エディタス社に聞きました。見積もりの内容、金額とも妥当なものだと言われ、あとはその金額が回収できるかどうかです。
で、22世紀アートに、経費が回収できるかどうかストレートに聞きました。100%保証はできませんが、今までの経験から十分回収できる本だと思います、の回答。その道のプロが本を読んで、そう言うのであれば、とGOをかけることにしました。
どうして30年前に書いた本を今、あらためて電子本の形で出すのかを考えてみたいと思います。
30年前に書いたとは言え、内容的に古いものではありません。30年前でありながら、そこで作り出したものは、時代のはるか先を行っていたような気がします。
「共生社会を作ろう」とか「ともに生きる社会を作ろう」といった言葉も、今ほど社会に広がっていない時代でした。障がいのある人たちに惚れ込み、一緒におもしろいことやろう!と、ただそれだけの思いでいろいろやっていたのですが、気がつくと、いっしょに生きる社会が小さいけれど自分のまわりにできていました。
支援とか指導ではなく、ただ一緒におもしろいことをやる。そんなフラットな関係で障がいのある人たちとつきあってきました。それが一緒に新しいものを創り出す元になったと思います。
演劇ワークショップも最初は「障がいのある人たちのために」みたいなところがありました。ところが始めてみると、演劇ワークショップの場の面白さを作り出しているのは彼らであり、彼らがいるからみんなが集まって来ることに気づきました。3回目くらいの反省会の時「支えられているのは私たちの方だね」と地域の人たちがいいました。何かやってあげる、という彼らとの関係が逆転したのはこの頃からです。彼らとの新しい関係がこうして始まったのです。
彼らに対して「あなたが必要」「あなたにいて欲しい」と素直に思えました。「共生社会を作ろう」とか「ともに生きる社会を作ろう」なんて言わなくても、そういった関係が自然にできたのです。それを考えると、『街角のパフォーマンス』で作った関係は、今のこの時代よりも先へ行っていた気がするのです。
社会の多くの人が、特に福祉施設の人たちが、障がいのある人に対して「あなたが必要」「あなたにいて欲しい」と思っていたら、あちこちで起きている虐待事件も、やまゆり園事件も起きなかったのではないかと思うのです。障害のある人たちに、日々接している福祉施設で、私たちが30年も前に作ったこんな関係が、どうしてできないのかと思います。支援はそういった関係なんか関係ないのでしょうか?社会から排除される彼らだからこそ、そういった関係が必要だと思うのですが…
目次見ただけでわくわくするような本です。
『街角のパフォーマンス』電子本は4月頃、電子本になります。発売日が決まりましたらお知らせします。
津久井やまゆり園事件について考える集まりに行ってきました。
いろいろいいお話が聞けたいい集まりだったと思います。
講師の佐藤さんは大学の先生らしく、話が論理的で若干堅い感じがしましたが、障がいのある息子さんがいらっしゃるようで、その息子さんの話をする時はとても柔らかい感じになって、佐藤さんの人柄を感じました。息子さんを連れて銭湯に行った時のほかのお客さんの目線の話は、とてもリアルで、今まで息子さんを巡っていろいろ辛いことがあったんだろうなと思いました。
毎日新聞の上東さんは社会の無関心が一番の敵、という指摘をされていましたが、多分上東さんが書かれている「やまゆり園事件は終わったか」のシリーズも、読む人が限られているんだろうなと思いました。そこをどう広げていくかは私たちみんなの問題です。
先日ぷかぷかの演劇ワークショップの記録映画の上映を手がかりにやまゆり園事件を考える集まりをやったのですが、その時に参加した学生さんがこんな感想を書いてくれました。
「この事件が起きた当時、私は「なんて悲惨な事件なんだろう」とただただ悲しい気持ちになることしかできませんでした。障がいをもつ19人もの命を奪っただけでなく、重傷を負った方がいたり、その家族や大切な人を傷つけたり、凄惨な事件であることの認識はできたものの、その事件を越えるために自分に何ができるのか、考えたことはありませんでした。自分から遠い出来事なのだと考えてしまっていたのです。
しかし、今日のトークイベントに参加して、全くもってそうではなかったのだと、今までの自分が情けなく感じました。事件は、容疑者だけの問題ではなく、そのような考えを生んでしまった社会全体でとらえていかなくてはならないのだと強く感じました。」
漠然と事件を考えるのではなく、自分にとって何だったのか、を考えるきっかけになった、という感想、上映会やってよかったと思っています。そういう気づきが生まれるようなことをこれからもやっていきたいと思っています。
虐待についての話で一点だけ気になるところがありました。
虐待をする現場の人間に強度行動障害の人に対応するスキルがなかった、専門知識がなかった、という話が何度か出ました。確かにその部分はあるにしても、その前に、利用者さんと人として出会ってなかった、ということがあるのではないかと思います。
利用者さんと人として出会っていれば、虐待なんて起こりようがありません。相手を人として見ることができていれば、虐待なんてできません。それが人としての感覚です。相手と人として出会っていないと、この、人としての感覚を失います。
施設の大きな問題は、利用者さんと人として出会える環境、人としてつきあう環境がない、ということではないかと思います。スキルとか専門知識の前に、そういった環境を考えることこそ大事な気がします。
スキルや専門知識をバッチリ身につけると、それを通してしか相手を見ることができなくなり、それは人として出会う機会をむしろ阻害します。スキルや専門知識で対応できるのは利用者さんの限られた部分です。利用者さんも人間ですから、よくわからない部分が多いのです。そこは謙虚に向き合っていくしかないのだと思います。
養護学校の教員をやっている時、シノちゃんという生徒がいました。シノちゃんは強度行動障害の生徒でした。毎日のように殴られ、蹴られしていました。顔面を思いっきり殴られ、鼻血が止まらなくなって病院に担ぎ込まれたこともあります。私には専門のスキルも知識もありませんでした。ただシノちゃんが時折遠くを眺めながらニッと笑うその笑顔がとても素敵でした。殴られたり蹴られたりした痛みがいっぺんに吹き飛んでしまうくらい素敵な笑顔でした。私にできたのは、その笑顔を見ながら、ただそばに行って黙って寄り添うことだけでした。そんな日々を繰り返す中で、シノちゃんはいつしかどこかへ出かける時は私の手を握ってくるようになりました。殴る、蹴るは相変わらずでしたが、それでも素直に手を出してくるのです。たったそれだけのことですが、シノちゃんの気持ちが伝わってきました。定年前の2年間担任しましたが、30年の教員生活で一番印象に残っている生徒です。
もう一つ、スキルや専門知識が必要となると、ふつうの人にとっては、それがないと重度障害の人には付き合えないのか、ということになります。そんなのなくてもふつうに付き合えばいいですよって言えるような関係こそ広げていきたいと思うのです。もちろんいろんなトラブルもあるでしょう。それもお互いを磨くいい機会だと思って前に進んだ方がいいと思います。トラブルは相手と出会ういい機会です。
かつては強度行動障害と言われ、やまゆり園に入っていた尾野一矢さんが、自立生活を始め、最近ぷかぷかに来るようになりました。陶芸をやるようになって、とても穏やかな表情を見せるようになりました。
特別なスキルや専門知識がなくても、ふつうにつきあっていれば、こんな表情が出てくるのです。「一矢さんて、優しいおじさんだったんだ」って、私は一矢さんとあらためて出会った気がしました。
一矢さん、ぷかぷかがだんだん楽しくなって、こんなにいい顔をします。
利用者さんとは、お互いこんな顔して「いい一日だったね」って言い合えるような関係でありたいと思っています。
施設に、そういった関係があれば、虐待なんて起こりません。そういった関係は、スキルや専門知識ではなく、人と人のあたたかなおつきあいから生まれます。
創英大学の学生さん達が、11月14日の上映会の感想を書いてくれました。みなさんの新しい気づきが素晴らしいです。こういった気づきは人生を豊かなものにします。
創英の学生さんは10月から統合保育の授業の中で、「障がいのある人たちとはいっしょに生きていった方がトク!」をテーマに、「Secret of Pukapuka」とEテレの共生社会を考える教育番組を上映、ぷかぷかさんと一緒ににすごろーくワークショップ、簡単な演劇ワークショップをやり、今回の上映会の参加がありました。このあとそれぞれ2日ずつぷかぷかで体験実習をします。丸一日ぷかぷかさんと一緒に仕事をやります。そういった活動を通してのいろんな新しい気づきが学生さん達の人生を豊かにしていきます。
ぷかぷかさん達とのおつきあい、障がいのある人たちとの出会いが若い学生さん達の人生を豊かにするのです。ここからお互い生きることがもっと楽に、もっと楽しくなる新しい社会が始まります。
◆印象に残ったシーン(映画)
・劇のシーンでの元々は違う設定だったけれども1人の方が「
・主役の方が途中から練習に参加をしないでいた所。
・
・ぷかぷかさんが劇をしているシーンです。
◆印象に残ったシーン(トークセッション)
・「障害者で良かったと思う」
・大学の講義の時に見た映画でもあった、「
・
◆
・楽しく自由に生きることを伝えたかったことだと思いました。
・障がい者を障がい者として見るのではなく一人ひとりの人、
・障害がある人にとっての1番は何か、
・
・障害を持っているからといって偏見を持つのではなく、
・人と違うことは悪いことではなく、
・障害の有無にこだわらずにふれあって、
◆感想など自由に記載してください
・1人ひとり個性が溢れ、
・一人ひとりを見ることができるように意識し、
・映像だけでなく、
・実際にお会いして楽しい雰囲気を感じていたが、
・
・
・とても自由な行動や生活を一部でもみることができ、
・
・こういう上映会に参加してみないと分からないことが沢山あり、
障がいのある人への虐待について考える集まりが二つも続けてあります。それだけ虐待が多いのだろうと思います。なんとも気の滅入る話ですが、二つとも行く予定でいます。虐待をなくすための何か手がかりがつかめるかと思って。
「支援」をする現場で、どうしてこんなにも虐待が多いのだろうと思う。「支援」て、いろいろできないことの多い相手を手助けすることじゃなかったのか。それがどうして虐待になってしまうのか。
虐待は、相手を人として見ていない。相手をとことん見下している。だから何やっても許されると思っている。そういった関係を「支援」というものが作り出したのなら、それはどうしてなんだろう。「支援」という関係性について、その関係性が生み出すものについて、きちんと検証する必要があるのではないか。そういったことを福祉の現場がいったいどれだけやってきたのだろう。
ぷかぷかには虐待などといったものはあり得ない。いっしょに生きていこう、という関係だから。同じように障がいのある人たちを相手にしていながら、どうしてこうもちがう反応が出てくるのだろう、とあらためて思う。
ぷかぷかは今まで何度も書いたように、障がいのある人たちとはいっしょに生きていった方がいいと思い、お互いがハッピーに思えるものをたくさん創り出してきた。ぷかぷかの外の人たちも彼らととてもいいおつきあいをしている。
つい先日も近くの大学にぷかぷかさん達と行って、すごろくワークショップと簡単な演劇ワークショップをやってきた。その時の学生さん達の感想を見ると、短い時間ながらも、あたたかな、とてもいいおつきあいをしたことがよくわかる。
・いっぱいいっぱい笑えたよ。
・じぶんの好きなこと、好きなものを笑顔いっぱいで話してくれて、キラキラしていて素敵。
・たくさんの笑顔を見ることができて、とても心があたたかくなった。
・いっしょにいるだけで心がぽかぽか
一緒に「ムンクの叫び」をやってみた。
瀬谷区役所の人権研修会でぷかぷかの映画を見たあとの気づきにはこんな言葉があった。
・私の心もほっこり
・みんなが素直になれる。
・みんなで笑えるって素敵
・心が洗われる笑顔
障がいのある人を前に、こういう言葉が自然に出てくる関係と、虐待が出てくる関係。あまりの落差にめまいがしそうだが、この差はいったいどこから出てくるのだろう。
学生さんたちも区役所の人たちも障がいのある人たちと接するのは初めてという人が多かった。にもかかわらず、こんなにあたたかな言葉が出てきた。一方で福祉事業所で介護のプロ達が虐待をやっている。いったいどういうことなのかと思う。
障がいのある彼らとは、今、この時代にたまたま行き合った仲だ。お互いハッピーな気持ちで一緒に生きていきたいと思う。虐待は、誰もハッピーにならない。なのに、どうして虐待がなくならないのか。
尾野一矢さんのマイカップ、ソーサー、お地蔵さんが焼き上がりました。
朝、マイカップでお茶を飲むところから一日が始まります。
自分の手で 自分の一日を作る。
それが自立生活。マイカップから始まる自立生活はどんな一日なんだろう、とちょっとわくわくします。生活にはやはりこの「わくわく」感が大事です。
お地蔵さんはどこに飾ったのでしょう。自分で作ったお地蔵さんが部屋にあるって、素敵だと思います。大きな目をしたお地蔵さんは何を思っているのでしょうね。
昨日は部屋に花を飾る一輪挿しを作りました。麺棒とたたら板を使って厚さ7ミリほどの粘土の板を作ります。麺棒を使って、たたら板の厚みに粘土の厚みを合わせていきます。一矢さん、この作業を結構楽しんでいました。
この板から、一輪挿しのベースになる部分と花を挿す部分を切り出し、粘土を溶かしたノリで貼り合わせていきます。こんな感じになります。
2週間ほどすれば焼き上がります。一矢さんの部屋に一輪の花が飾られます。部屋がぱっと明るくなります。
たまたま今朝の朝日新聞「折々の歌」に詩人田村隆一の言葉が紹介されていました。お見舞いにもらった一輪の花に
気が利いているねえ。一本というのがとてもいい。じゃまにもならずに格別にきれいだ
一矢さんの部屋に飾られる一輪の花は訪れた人からどんな言葉を引き出すのだろう。楽しみですね。
先日瀬谷区役所で人権研修会をしました。人権についての講演をしたわけではありません。人権についてそれぞれが考える、それぞれの考えたことをみんなで共有する、といったことをやりました。人権という漠然としたものではなく、障がいのある人たちとどんな風におつきあいしていけばいいのか、といったことに絞って話し合いました。
その手がかりとしてぷかぷかの映画『Secret of Pukapuka』をまずみんなで見て、その時の気づきをまず5行くらいの詩に書いてもらいました。
その詩を6,7人のグループの中で発表してもらいました。グループの中で、それぞれの気づきを共有します。
次にそれぞれの書いた詩を一行ずつ切り離します。それそれの書いた詩を、グループの詩に編集し直すのです。一人5行ずつ書いて6人いれば、30個の言葉が並びます。その言葉をよく見て、はじめの方に来る言葉、終わりの方に来る言葉、真ん中あたりに来る言葉、という風に言葉を並べ直します。ここでの言葉を巡っての議論がとても大事です。この言葉はどういう意味なのか、何を表現しているのか、この言葉はグループの詩の中でどこに来るのがいいのか、といった議論です。議論することで、お互いのことがわかってきます。
そうやってグループの詩を作り上げます。
詩ができあがったら、その詩をみんなで朗読します。ほかのグループの人に向かって、自分の気持ちを声を出して届けるのです。こんな風にして、自分の思いを表現します。表現することで、言葉のひとつひとつに丁寧にふれます。
一人一行ずつ読みました。時間がなかったので、1回練習してすぐ本番でしたが、本当は何度も練習して、言葉を自分のものにしてから朗読すると、朗読自体が素晴らしい作品になります。朗読する方も、それを聞く方も、新しい世界に出会うことになります。
参加した人たちの感想
・ぷかぷかさんが毎日を楽しそうに生きていることが羨ましく思った。自分はこんなにも自由に生きているだろうかと自問しました。
・ぷかぷかさんに会ってみたい。パンを買いに行こうと思う。
・趣向の変わった研修で楽しめました。もう少し時間が長くても良かった。
・時間が短くかけ足になってしまったのが残念。
・コロナもそうだが、知らないことやわからないことが「怖さ」のようなものにつながっているのだと思う。知ってしまえば大したことないのに。
・現代は、「違うことへの許容範囲が狭い」世の中だと思います。映像にもあったように、違いは個性でしかないのですが。それを理解するには時間がかかるのかな。
・通勤中に毎日出会う障害のある方に、今度声をかけてみようと思う。
・近所にグループホームが建設されるとしても私は反対しないが、地域の皆さん全員が賛成かというと、そうではない気がする。(そもそも建設の説明責任はないと思いますが)
・公務員として、できることはなにかと考える良いきっかけとなりました。
気づきの言葉の中に
「みんな輝いている」
というのがありました。ぷかぷかさんの活動を見て、そんな風に気づいてくれた人がいたことはとてもうれしいです。
どうして輝いていたのか。
それは何かができるようになることではなく、
お互い「いい一日を作る」ことを大事にしているからだと思います。
社会に合わせるのではなく、自分らしく、いい一日を生きる。
それがみんなを輝かせているのだと思います。
あらためて思います。
やまゆり園で殺された人たちは、日々の活動で輝いていたのだろうか。
輝くような時があったのだろうか。
やまゆり園は、みんなが輝けるような場所だったのだろうか。
みんなが輝いていれば、みんなが輝けるような現場であれば、事件は起こらなかったんじゃないか、とあらためて思います。
福祉施設のみんなが輝くためにはどうしたらいいんだろう。
ひよりちゃんのお母さんの素敵な感想が届きました。
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まず初めに思ったのは、あんなにお米がついて1000円だなんて良いのですか!!という事でした。皆さんで楽しくかつ真剣に育てたお米をありがたく受け取らせていただきました。
おにぎりもいただいたのですが、粘り気もある本当に美味しいお米でした。作った人の顔がわかるというのは、なんだかとても幸せです。
映画を観たのはYouTubeとで2度目なのですが、全く別物のように感じました。大きなスクリーンで観た方が何倍も良かったです。
私の心に残ったのは、高崎さんが養護教員を辞められる時に、「彼らと別れたくない、一緒にいたい」と本気で思っていたのだなと、それがダイレクトに伝わってきたことです。お話では何度かうかがっていたのですが、あらためてその想いに触れて、知的障害のある娘の母親として、親以外でも本気でそんな風に思ってくれる方がいるということが幸せで、胸いっぱいになりました。
演劇ワークショップに参加させていただいていた時にも感じていたのですが、ぷかぷかさんが何か発言するたびに、真っ先に満面の笑みを浮かべて楽しそうに笑うのは高崎さんでした。代表の方が心から一緒に過ごすことを楽しんでいる、そのことこそが、ぷかぷかのあの優しい空気感を生んでいるのだと私は感じています。
それから、トークショーもとても良かったです。当事者の方のお話しが聞けたのも良かったですし、評価しない眼差しのお話は、なるほどと一つ謎が解けた気持ちになりました。
帰宅するまでの車の中で、夫とも評価するしないの話になりました。私たちは常日頃、自分が何か出来ないことに対して、自分を蔑むような目線を自分自身に向けているよねと。でも私たちはいつもそこで娘のことを思い出すよねと。出来る出来ないで自分の価値を判断するなら、娘はどうなるのだと思うのです。娘の存在を否定することになるのではないか?と。娘はいてくれるだけで有り難く、私たちには有り余るほどの幸せをくれます。その存在そのものが、私たちが自分で自分を嫌いにならないように日々救ってくれているのがはっきりとわかりました。
振り返って思えば、私は昔よりも自分のことが好きになっているのを感じました。いつの間にか自分を愛せるようになっていました。
結論!ぷかぷかさん達と一緒に過ごすと、みんな自然と自分を愛せるようになる→
自分を愛せると他人も愛せるようになる→そして世界は心ぷかぷかになるのです!
あ〜〜、なんだか大きな謎が解けたような気持ちでスッキリしました!
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「評価しない眼差しのお話」はゲストの上東さんが話されたもので
「障がいのある人たちは、誰かを評価しないまなざしを持っている。だから彼らといっしょにいると居心地がいい」
といった趣旨のことをお話しされました。
以前花岡知恵さんのブログに「世界がhana基準になったら」というのがあって、その中に「評価しないまなざし」に通じるこんな言葉がありました。
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(hanaは)
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「人を評価しないまなざし」というのは、こういうことなのだと思います。そういう「hana基準」に世界がなったら、
と花岡さんは書いているのですが、今あらためてその通りだと思います。
「人を評価しないまなざし」を私たちが獲得するのはなかなか難しいですが、そういうまなざしを持った人たちといっしょに生きていくことは、その気になればすぐにできます。せめて彼らのそばにいて、彼らはいてくれるだけでありがたい、と思うようなまなざしを身につけたいと思うのです。
人を「できる、できない」で評価する、その果てにやまゆり園事件はあったように思います。であれば尚のこと、「人を評価しないまなざし」は大事です。そういったものをどこまで私たちが自分のものにできるか、事件を超える社会はそこにかかっているように思います。
ひよりちゃんは夫婦の宝だけでなく、街の宝です。ひよりちゃんがいることで、みんなが笑顔になり、街が豊かになります。いっしょに生きていった方がトク!です。
障がいがある人と一緒に暮らす社会について掘り下げて考えるためのトピックス集です。